菅野樹のよもやま

創作、妄想、日々のもろもろ

風琴堂覚書 外伝 金青

寺町は、いつもよりも深閑としていた。夜のうちに雪が降ったらしく、古い街は今年最初の雪景色になっていた。楠並木も、今日は暗い緑になっている。

俺の務める骨董屋、風琴堂もそんな景色に溶け込んでいた。蔵を改造した店には、古い牧ストーブが一つあるだけで、とても部屋を暖めてはくれない。普段は持ち込まれた品を扱う作業机の下に、手あぶりの火鉢を一つ置いて暖をとっている。

店の奥からは、ギターの音が流れて来ていた。「聖母マリア頌歌集」。寒い店での番を俺におしつけて、店主であり大叔母でもある御室が、レコードをかけているらしい。そうか、もうすぐクリスマスか。そう呟いてみたが、あまり関係のないことなので、作業に戻ることにする。

馴染みの日本画家が数日前に持ち込んできたのは、ラピスラズリ。小さな布袋にぎっしりつまっていた。最初は絵具にするために手に入れたらしいが、どうにもそのラピスラズリを手に入れてから体調が良くないという。そういうことで、絵具にするのは諦めて、数珠にでもしようかと思ったらしい。

実を言うと、骨董だけでは飯が食えないので、時折そんな依頼を受けたりもする。御室は嫌うが、このご時世しようがないと、俺は思うわけだ。

布張りの箱の上に、袋から出したラピスラズリを並べていく。この袋を預かった時、何故だかすぐには触りたくなかった。画家が袋を持ち込んだあの時、御室は何時も掛けている奇妙な眼鏡、左側にだけ濃い色硝子の嵌った、それをはずして、ほうと呟いたのを、俺は見逃さなかった。

彼女の左目は、時に色んなものを見る。未来だったり、もうこの世にはないものだったり。一つずつ、ピンセットで石を大きさ別に分けながら、俺は小さく息を吐く。左手が、皮手袋に包んだ左手が疼いている。昔の火傷のせいだけではなく、そう、きっとここに転がる石の中に、何かあるのだ。ピンセットを手にしたまま暫く机に肘を着いて俺は悩んでいた。

俺の左手は、物に籠った「過去」を見る。さて、どうする。

御室は、何を見たんだろうか? 左手の手袋を外すのに、そう、時間はかからなかった。

 

 

深く濃い黒の先に、真っ白な毛足の長い猫が走っていく。ペルシャ猫だ。猫は、俺の気配に気づいたのかつと立ち止まった。

――貴方は何をしているのですか?

猫は俺にそう声をかけてくる。金と青の瞳を持った、優美な猫だ。やぁ俺の姿が見えるのかと、そう思うと猫は優美な尻尾をふぁさりと動かした。

――ここは主上後宮でございます。

猫はそう言うが、俺にはそう、まるで遠眼鏡で世界を覗いているようにしか世界が見えないでいる。

暗い闇の先に、ぽかりと光が開け、其処にはタイルと緑で美しく装飾された中庭が見えるのだ。

(此処はどこかな?)

俺が呟くと、猫はきちりと座り直し、遠い昔に大陸にあった国の名を口にした。異国に飛んできたのは初めてだが、思えばラピスラズリという石は遥か西の果てにある国が産地だった。

――貴方様から、我が主人の匂いがいたします。

猫は金と青の瞳をくるくるさせ、鴇色の鼻を蠢かせる。俺の左手は、過去の欠片を掴んだようだ。

(君のご主人とは、王様かな?)

立派な中庭を遠くに見ながら俺が再び問いかければ、ペルシャ猫はにゃあーんと一声鳴いたのだった。

 

ご覧くださいませ、美しい中庭でありましょう? 主上が異国生まれの我が主人の為に、お作りになったものでございます。主人の国は、この地よりもはるか先、太陽が沈む先にあったそうですが……。

主人の国を滅ぼしたのは、主上でございます。そうして、主人の夫であったその国の王を殺してしまわれたのも、主上でございます。まだ私が生まれる前で、後宮に献上される前の話ですので、よくは存じませんが、主上は主人のあまりのお美しさに殺すことをお止めになられ、ご自身の後宮に収められたとか。

私はこの美しい姿故に、主人への貢物として差し出されました。由緒正しい血筋でございます。主人は頑ななお方であります。そう、お考えくださいませ、夫を殺した男の、失礼、主上後宮。心を開けという方が無理でございます。

主人はこの国の言葉を覚えず、そうして風習も受け付けられませんでした。いつでも太陽が沈む方向を見つめ、この国の女達のように髪を奇妙な形に結い上げたりです、金色の長い髪をお背中にたらし、数多い主上からの贈り物から有何時、私のみを抱き上げ可愛がってくださいました。私は主人をお慰めするために何時もぐるぐると歌を歌っておりました。

主人と一緒に、幾月の太陽と月を見送ったでしょうか。その間も、主上の贈り物は途絶えることがありませんでした。

白い子馬、沢山の宝石、絹織物。主人の為のお館がそんな輝かしいもので埋まっていきました。主上は時折お越しになり、主人にお声を掛けようとなさるのです。けれども、何時も窓辺に凭れ、空と同じ青く澄んだ瞳で遠くを見つめる主人をご覧になると、悲しそうなお顔でお帰りになるのでした。

そうして、あの日が来たのです。そう、主上が主人に最初で最後のお言葉を掛けられた日が。

 

――私の名前をご存じではありませんか?

金青の瞳がくるくると、俺に問いかけてくる。

 

あの日、天の木星が南の夕空に上がる時間でございました。緩やかな黄色の絹の衣をお召しになった主上が、我が主の元にお越しになったのです。後ろに手を組み、ゆっくりと歩み寄りながら、たどたどしい主の国の言葉で、ええ、私は猫でございますのでお心さえいただければいかな国の言葉とてわかるのでございますが、主上は主の国と同じ言葉を話します隊商の人をお召しになり言葉を学ばれたそうなのです。

――妃には何を贈れば気に入ってくれようか?

主上は部屋を埋め尽くす絹の衣を眺め呟かれました。主の肩が僅かに動くのを、私は眠ったふりをして感じておりました。主はすぐには答えません、主上は水盤の上に盛られた数多の宝石を掬い上げながら、返事を待っておられました。

――私が賜りたいものは、

主は石膏でできたような白い顔、その頬を僅かに薔薇色に染め、小さく美しい声で呟きました。驚いたことにその言葉は、主上の国の言葉でありました。主上は初めてお耳にされました主の声に、僅かに微笑を浮かべておいででありました。しかし、そのお顔はすぐに、暗く沈んでしまわれたのです。

――私が賜りたいものは、主上、永遠の眠りでございます。

あまりに凛としたお声でありました。しかし、少しも冷たくはなく、不思議な温かさにあふれたお声でありました。

――朕の贈り物が気に入らぬのか? 朕は妃の敵でもある、憎いのか。

主上のお声は淡々としておいででした。その時、主の顔に浮かびました色は、なんと申しましょうか、憐みとも慈しみともつかない、聞き分けのない子の言い分を聞くような、母のようなお顔でありました。

――主上よ、人の気持ちは物では手に入れることは叶いません。私は今やないとはいえ、亡国の王妃であり、我が夫の妻であります。神の名のもと誓い結ばれました。それ故に、主上のものになることは、叶わないのです。

――朕は皇帝である。この世の中心である。妃の信ずる神など朕は知らぬ、朕の思うようにせよ、従え。

主上は切れ長の美しい瞳に、恐らくお生まれになって初めての悲しみの色を浮かべ、主をも見つめております。しかし主は首を横に振るだけでありました。

――主上のお気持ちを時に心地よく思う己が、許せないのです。主上を慕う気持ちが時に芽生えるの己が、許せないのです。主上のお顔を思い浮かべながら、いまだ、我が夫の顔を思い出します。そうして、主上が我がもとに通われる度に、他の妃方のお嘆きが聞こえてまいります。主上主上はあの時、この私の命をお奪いにならなければなりませんでした。

わからぬ、主上は確かに小さなお声でそう呟きになられました。しかし、主上、御自らの願いをお断りあそばされた主には、もう生きていくことは叶いませぬ。すぐに、主の元に、小さな素焼きの壺が届けられました。主上は暫く掌の上でその壺を弄んでおいででした。主は嬉しげに、白い腕(かいな)を伸ばしました。

――主上、最後に一つお願いがございます。この子をどうぞ、私の代わりにご寵愛くださいませ。

私は主の腕に抱かれ、そっと主上に手渡されました。ぎこちない手つきで主上は私を抱き上げながら、私の首輪にお気づきになりました。それは、主上がお送りになられました数多の高価な宝石の中から、たった一つ主がお選びになった金青石を金の鎖に通した首輪でございます。主上はその時、主のお気持ちにお気づきになったのかもしれません。

そう、主は主上にお心を傾けてしまわれたのです。しかし、亡き夫君をどうしてもお忘れになることが出来ないでいらっしゃいました。

――主上、我が死をもって、我が思いを知り賜え。

そのお言葉が、私が最後に耳にした主のものでございました。主は白い喉を仰のかせ、壺を一気に傾け何かを飲み下してしまいました。

主上は微動だにせず、その光景を見つめておいででした。やがて、主が柳眉を僅かに苦しげにお寄せになりましたが、ゆっくりと、お倒れになりました。

主上の元で私は暮らし始めましたが、我が主がどうしても忘れられません。あれほどに可愛がってくださいましたのに、何処にいかれてしまったのでしょう?

私は毎日、人気のなくなった主の館に通いました。豪華なものは何一つなくなり、変わらないものは水をたたえた中庭の池だけでございました。館の中、泣きながら主を探しましたが、ある時疲れて泉の側の池を覗き込みました。湧き出る水に喉をうるおしたのち、その水面が懐かしい主の瞳と同じ色を湛えているのに気付いたのでございます。

その先に、主はいて私をお待ちなのかもしれない。そう思った私は、ぽんと、その泉に身を投げたのでございます。

 

――私はもうどれほどの時間、ここにいるのでございましょう? 我が主人はいずこでございましょう? 私の名前、私の名前をご存じありませんか? もうすっかりと忘れてしまったのであります。

何時しか中庭の景色は消えて、俺は白い猫とむきあっていた。金青の石を力を込めて握りしめれば、俺の頭蓋の内側にうっすらと貴婦人の姿が浮かんでくる。その人の微かな声が、愛おしそうに名を呟いていた。俺は右手を伸ばし、優美な白い猫の頭をそっと撫でると、その耳元に屈みこみ、呟いた。おそらく、その美しい猫の名であったろう美しい言葉を。

やがて、猫の身がぶるりと震え尻尾が膨らむ。そうして、にゃーんにゃーんと立て続けになくと、身を翻しずっと暗い、暗い闇の果てに駆けて行ったのだった。

 

「風邪ひくぞ」

野太い声が頭の上から降ってきて、俺は顔を上げた。左手にオーバル型のラピスラズリを握りしめ、何時しか俺は眠っていたらしい。肩にはでかいダウンジャケットが掛けてあった。俺の前に立っていたのは、この店のお抱え弁護士、嶽だった。長身の巨漢でとても弁護士には見えない。

「何しに来たの」

俺が言えば、嶽は旧市街にある店から買ってきた、ロストチキンやパイの入った袋の中身を見せた。

「御室さんもお前も、世間の行事に疎いからな。付き合ってやるよ」

「付き合ってくれる人が、お前にいないんだろう」

俺が言い返しても知らん顔の嶽は、やがて作業机の上にあるラピスラズリに気が付いた。

「それ、どうする?」

「こっちは」

粒のそろった石を袋に戻しながら、数珠にすると俺は答えた。嶽はもう一つ、オーバル型の石を指差す。これだけは、これだけは特別だろう。

よく見れば、穴が穿ってある。これに、そう金鎖を通そう。俺が買い取ってもいい。

何時しかレコードは終わっていた。あの不思議な、どこか物悲しい曲の為に、不思議なものを見たのかもしれない。

「嶽かい?」

店の奥から御室の声がする。嶽は返事をしながら、食糧の入った紙袋を抱え上げた。

「食い物、持ってきました」

そう言いながら、店奥に消えて行った。

俺はダウンジャケットを肩にかけたまま、主が使う李朝時代の黒檀の机の後ろにある、書架の前にたった。その中から分厚い世界史の本を引き出した。

金色の髪の、あの美しい貴婦人の名前を知りたいと思った。けれども、歴史の本の何処にもその名を見つけることが出来なかった。

きっと、そんな貴婦人は沢山いたに違いない。俺はもう一冊、鉱物の本を取り出した。そうして、店の帳簿でもある革表紙の分厚い帳簿も引き出す。

あの画家から、石を買い取ったら、帳簿に、風琴堂覚書に名を加えよう。あの美しい白い猫の名前をつけて。

あの猫の名は、ラズワルド。天の青、そんな意味らしい。

外を見ると、また雪が降り始めていた。御室がまた、イスラムの匂いのする古いギターの曲をかけている。この雪は積もるに違いない。

「七海、店を閉めておいで。クリスマス、とやらを祝おうじゃないか」

御室のそんな声がする。俺は小さく笑みを浮かべると、小さな木箱に一粒のラピスラズリを収めた。

……主上は、妃の愛を知ったのだろうか?

もう、それを知ることはできなかった。

 

 

了。

Extra オールド・シティ サード

 昼間、ランチの客がひと段落するのは、三時近く。最近、有難いのか迷惑なんだか、ネットで、この古い町にある、名前のない喫茶店を紹介してくれるお客がいて、そこそこに、僕は忙しい。店主である祖父に尋ねたところ、開店当初は名前があったらしいが、いまや、忘れた、ということである。おめでたい。

 祖父は、近所の額縁屋のおやじの家に出かけた。アルバイトの一人でも雇いたい身の上の僕だが、まぁ、祖父の目の黒いうちは無理だろう。

 洗い物を片付け、ほっと一息。自分の食事は、ベーグルにチーズとブルーベリージャムを挟んだもので済ませる。客のいなくなった店の、窓辺に近い席でふっと息を吐く。見計らったように、郵便屋さんがやってきて、手紙や封書を置いていった。ダイレクトメール、ダイレクトメール、ダイレクトメール。全部、ゴミ箱行きだ。そう、思っていた、僕の手が止まった。

 

 女文字の、葉書が一枚。僕宛だ。その差出人に、僕は覚えがなかった。しかし、あまりに美しすぎる文字は、淡々と、僕の、一番大切な友人の、死を、伝えていた。いや、友人だと思っていたのは、僕の思い込みだったのかもしれない。

 

 空っぽの頭で、僕は何度もその葉書を読み返す。だが、何も頭に残らない。あいつが死んだ? キリオという、変な呼び名。物堅そうな顔つきでいて、その瞳は何時も悪童のように輝いていた。

くも膜下出血にて……」

 青臭い季節を、一緒に、形のないものを追いかけていた。

「嘘だろう」

 僕は一人、呟いていた。

 

 葉書を片手に、僕は町を見ていた、石造りの古い町だ。時が止まったような町だ。

 僕にだって、生まれ育ったこの町を出て、何かやりたいという思いがなかったわけではない。ただ、僕には、祖父譲りの、祖母譲りの、美味しい珈琲や料理を作る才能はあったんだろうけれども、人を酔わせるような音楽を奏でる才はなかった。キリオには、それがあったはずだった。高校時代の終わり、若気の至りでギターとピアノのデュオを組み、ライブハウスを回った。それは五年ほど続き、声がかかったのはキリオで、僕ではなかった。

硝子戸を閉め、「CLOSE」の札を掛ける。左手に握ったままの葉書をもう一度見る。

 

――よう。

そんな声が、した。ゆっくりと振り返れば、カウンターの端、丁度ぼんやりと薄暗くなっている場所に、奴が座っていた。キリオだ。僕が最後に彼とあった時のままの、格好であり、年齢だった。足は、あるじゃないか。

僕は黙って歩み寄り、ただにこにこと笑っている奴の前に、葉書を放り出す。

「こういう挨拶は、いただけない」

僕が言えば、奴は、キリオは薄く笑った。足はあるが、姿自身は薄い。後ろのカウンター、酒棚も透けて見える。

――人生は予定外。そうだろう? 俺の奥さんも動揺しちまって、四十九日前に葉書出してくれてよかったぜ。

「葉書にのってきたのか」

――まぁ、そういうところだ。

「ずぼらな奴だな。そういう存在なら、すぐに俺の所に来いよ」

 つい、俺、と言ってしまった。キリオと話すときは、何時も、俺、だった。

キリオは、嬉しそうに笑ったままでいる。よく、笑っていられる。じゃぁ、また明日な。俺にそう言った次の日には、町を離れていった奴なのに。

――この店、継いだのか?

「予定は未定だ。じいさんはまだ、元気だ」

――大学に入りたての頃、盗み酒やったらぶん殴られたな。お前と。

「酒は自分の金で飲めってね。くだらんな、そんな昔話をしに、俺の所に来たのか」

 俺が言うと、キリオは照れくさそうに頭を掻いた。

――ずっと、連絡しなくて、悪かった。

「お互いだ」

――俺だけ、有名になろうとして、悪かった。

「才能の違いってやつだ」

――怒っていないのか。

 キリオが、俺を見上げてくる。二十代の前半というのは、こんな切ない顔をするんだろうか。俺も、そんな目をしていたんだろうか。もう年を取らないキリオの前で、俺は分別のあるような、余裕かました表情で、いるんだろうか?

「怒っているとすれば、俺に黙っていたことだ。俺は、祝福したと思うぜ」

――違うぜ、サード。お前は年を重ねたから、そんな気持ちになってるだけだ

「そうかな」

――そうだ。

 俺はちょっと考えてみた。そうして、唇の片端を曲げた。

「そうかもな。お前のCD、俺、買わなかったから」

 キリオが笑った。俺も笑う。過ぎ去った歳月を、笑いあう。キリオの肩を叩けないことが、寂しい。ふと、そう思った。

 

 雷鳴が轟き、空が暗くなる。次にはもう、激しく雨が降り始めていた。会話は途切れ、雨音に包まれる。俺とキリオはただ、黙って雨にけぶる町を見た。

――あの、唄、おぼえてるか

キリオが呟く。昔々に、約束をしたことがあった。よく、二人で演奏して、歌った曲があった。その中のワンフレーズが、気に入ってしょうがなかった。

 俺はカウンターの内側に入ると、数多の酒瓶が並ぶ棚から、一本を引き出した。

 ワイルドターキーの、12年もの。封は、切っていない。こんなものを用意していた俺は、やっぱり、キリオの帰還を待っていたのかもしれない。キリオは帰ってきた。この世のものでなくなってしまったが、確かに今、目の前にいてくれる。

「三十は、とうに過ぎた」

 俺が呟けば、キリオはただ、頷いた。いい音がして封が切れ、濃い琥珀がグラスに注がれていく。

――きっと、うまいバーボンだ

 キリオの呟きに、俺はグラスを呷ってみせた。喉の奥まで焼くような強い酒は香り高く、青い空の下で飲みたい酒だった。

「飲まないのか?」

――お前も馬鹿だな、俺はもうあっちの世界に片足突っ込んでんだ。こう、エーテルのようなものを味わっているのだよ。

 したり顔でキリオは言う。そうして、タバコ吸いたいな、とのたまった。引き出しからマルボロを取り出すと、紙マッチを吸って火を点ける。一本を、キリオの前に置いた灰皿にのせてやった。俺も一本、咥える。

――線香よりこっちがいいな

 紫煙の向こうで、キリオが笑った。俺はただにやりというふうに笑って見せて、グラスに残ったバーボンを空ける。

――雨があがるぞ

 キリオの言葉通り、雨が薄くなり、世界が明るくなり始めていた。そうか、約束を果たしに、わざわざよってくれたのか。俺はキリオの顔を見詰めた。

「何時か逝くから、その時は迎えに出て来い」

――横着者

 なじるような言い方が、懐かしかった。ふいと彼の若やいだ顔から目を逸らし、煙がしみたような振りをして目をこすった。そのとき、まるで囁くような声で、キリオが言った。

――虹が、出るぞ

 俺が目を向ければ、ただ、バーボンの入ったグラスと、火の付いたマルボロが灰皿の上で燻っているだけだった。

 

 戸を開ければ、雨の名残の風が店に吹き込み、抜けていく。洗われた空は底抜けに、青すぎた。

 そうして、町の彼方向こうの空には、確かに、虹が渡っていた。カウンターに入ると、古ぼけたCDを取り出し、曲をかけた。リプレイにして、何度も、何度も聞けるようにした。奴の残したバーボンのグラスを片手に持つ。

 店の軒から僕は空を見上げると、一気にグラスを開けた。もう、今日は、閉店にしちまおう。そうして、くすりと、笑った。

 お前と一緒なら、きっと、もっと、うまかったと思う。

 

fin

 

すべてのものに幸いあれと願う

 遠い山の中から出てきた青年は、灰色の空の下にいた。乾ききった風中には、昔に突き刺したような棒杭。真っ直ぐ西へ向かう道に、バスは走っているはずだ。足元に絡みつく冷たい風を、僅かな荷物が入った小さな背嚢で防ぐ。凍えた体を己の両手で抱き寄せて、青年は果てを見つめる。やがて、黒い芥子粒のような小さな点が現れる。それは年季が入り塗装も落ちてしまった、錆色のバスだった。
 軋んだ音をたて、バスは止まる。古いドアだ。運転席の小さな三角の硝子窓が開き、薄い頭髪の上にバス会社の制帽をぞんざいにのせた、ゆで卵のようなおやじが顔を出した。「若造、すまないなぁ。ドアは手動なんだ」とがらがらした声でおやじが言う。折り戸を、押せばぎちぃと音を立て扉は開き、埃っぽい木床のタールの匂いとおやじの体にしみついた煙草とガソリンの匂いがした。小さな咳をして青年が行先を告げれば、「終点だ。料金は降りるときに入れるようになってる」、おやじはそう答え、無精ひげに包まれた顎を、つるりと大きな手で撫でた。顔の前で揺れる、ルームミラーから下がるロザリオに、運転手は小さく十字を切る。年季の入った十字架は、黒光りしている。青年はそれから目を逸らすようにすると、顔を伏せた。

 「この先はちょいと危険地帯でな、まぁ神頼みだ」

  運転手は照れくさそうにそう言い訳をしたが、青年は答えなかった。

 乗客は、誰もいないように思われた。一番奥の席にと思ったが、人の側にいたいような気がして、青年は運転席の二つ後ろの二人掛けの席を取る。がすがすと疲れた音をたて、バスが動き始める。運転手は日に焼けた顔の中にある愛嬌のある目で、青年をちらりと見る。青年は痩せっぽちで背ばかり高く、尖った顎の小さな顔の中には、高い鼻梁と大きな夢見がちな瞳がある。その瞳の色は、随分昔の青空のような色だった。座席のバネが尻にあたり、小石を跳ね飛ばすたびに響く。運転手はまっすぐに、灰色の空を見ながらハンドルを握っている。「若造」と運転手が呼びかけた。
「ラジー」
「なんだって?」
「ラジー、俺の名前」
 不機嫌な青年、ラジーの声に、運転手はがらがらと笑い声をたてた。バス中に響くほどの大きな声だが、気持ちよさそうだった。
「あぁ、すまんね。俺はマルコだ。ラジーとやら、君は、あの町になんのようかね」
 マルコと名乗った運転手は言う。あの町、とはきっと終点の町のことだろう。石造りの大きくて立派な町だと聞いた。行く理由は一つしかない。仕事を得るためだ。その時、軽やかな音が床を踏む音がした。悪路を走る音の中でも、それははっきりと聞こえ、思わず、ラジーは振り返った。無人だと思っていた奥の暗がりから、女が歩み寄ってきたのだ。
 華奢な踵の尖った靴を履き、膝元で軽やかに揺れる柔らかな黒いスカートに、胸元がドレープで美しく飾られた白いブラウスを着ていた。小鹿のように細い首の上には、可憐な造作の顔があり、肩にかかる黒髪。この辺りでは珍しい、東洋の女だった。「近くに座ってもよいかしら」と声は落ち着いて、心地よく低い。運転手はルームミラーの中の顔を嬉しそうに笑いの形にし、目尻を下げた。
「御嬢さん、近くによってくれてうれしいよ。あぁ、なんだかいい香りがするなぁ。なぁ、ラジー」
 なれなれしくマルコが言う。ラジーはこんな華やかな女にあったことがない。女は彼の返事を待たず、運転手のすぐ後ろ、彼の左前の席に腰かけた。動作は軽やかで空気が動き、タールとヤニの匂いが籠ったこの空間に、ふうわりと一瞬花の香りを漂わせた。
「御嬢さんは嬉しいけれど。嫌味に感じるお年頃なの」
「それは失礼、マダム」
 マルコは嬉しそうだ。顎が首に埋もれた丸い横顔を見ながら、この悪路を外れないで運転に専念してもらいたいと、ラジーは思った。そんな彼を、振り返った女が見つめた。切れ長の美しい瞳には笑うような色があったが彼女は何も言わず、やがてゆっくりと外を見た。
 枯れ果てた景色には、土色の大地と灰色の空しかなく、時折、灌木が視界の中を掠めていく。雨は、何時降っただろうか。乾ききった大地の罅が、傷口のようだった。
「山の向こうから来たのよ」
 ゆっくりと彼を振り返り女が言い、瞳を優しく笑いの形に細めた。ラジーは些かどぎまぎとして視線を逸らす。
「マダム、貴女の行先もあの町だったね」
 マルコが言えば、その席の背に身を預けるように、彼女は寄りかかる。
「主人が亡くなったから。国に帰るの。よかったら、リンって呼んで」
 そう名乗った彼女は、リンは、ラジーを見た。二人の視線が絡まったとき、運転席の天井からぶら下がっている無線が、がぁぴとけたたましく喚いた。

  こいつが啼くとろくなことがない、マルコは毒づきながら、無線をむしり取る。早口の会話が繰り返される。無線からは壊れかけた言葉が飛び出してくる。マルコは緩んでいた顔を引き締め、無線を切った。太い腕でぐんと重そうなハンドルを回す。バスも速度を上げて、古い石畳の道へと猛烈な勢いで乗り込んでいく。座席から放り出されまいと必至にしがみついているリンは、声音だけは驚くほどに落ち着いて、何があったの? そう尋ねた。

 「先の橋、空襲で壊れちまったらしい」

  マルコは言う。この国は今、宗教の違う者同士で争っている。ラジーが怯えた表情を浮かべたのかもしれない、彼の顔をちらりと横目で見たマルコは、無精髭に覆われた顔に、不敵な色を浮かた。

 「なに、ちょいと一休みをしておけということだ」

  陽気な声で言いながらも、彼の足はアクセルを踏み込み、古い道の先にある小さな町へとバスを突き進めるのだった。

   遺跡のように古びた町。肋が浮くほどに痩せた犬が一匹、舌を垂らして歩いている。マルコがバスを止めたのは、二階家の宿屋か食堂か。手伝えと、マルコはギアを引き、体形からは想像もつかないほどに機敏に座席から飛び出す。転ぶような勢いでラジーは立ち上がり外に出る。マルコは、砂色の大きなシートを取り出して、彼に押し付けバスの後ろの梯子を指差した。持って昇れと理由を聞くことも許されないような勢いで言われ、ラジーはシートを引き上げる。シートは戦闘機からバスを隠すためらしい。

 「今日はもう動けない」

  梯子を下りてきたラジーに、マルコは言った。彼らは空を思わず見上げる。灰色の雲はまだ視界を覆っていた。

 「ようこそ、お客人」

  店には老人がいた。撫でつけた白髪は薄く、痩せて皺に飾られた顔は、干し棗のようだった。

 「ジャコモ爺さん、空襲警報は出たかい」

  マルコはそう声をかける。老人は首を横に振り、カウンターを指差した。端には既にリンが腰かけていた。

 「ここは忘れられた町だ」

 「俺は忘れていないが」

 「空襲警報は出ない、出ても、逃げる場所はない。何にするかね、何もないがね」

  爺さんは笑った。歯のかけた口ががらんどうに見えて、骸骨のようだ。新酒の季節はすぎたなぁとマルコが言う。爺さんはにやりとし、何もないと言ったくせに、赤ワインを出してきた。最後の一本らしい。マルコがポケットを探ろうとすると、小さく首を横に振った。爺さんは何も言わず、四つのグラスに真紅の液体を注いでいく。

 「祝祭が近いというのに、何もない」

  爺さんは呟く。マルコが店の壁のすすけたカレンダーに目をやれば、生誕祭まで後わずか。リンは美しい指でグラスの細い足を摘む。薄汚れたこの場所で、硝子の優美なグラスだけは一点の曇りもなかった。マルコはそれに敬意を払うように掲げ、軽やかな葡萄の香りのする液体をゆっくりと口にしようとする。だがしかし、ラジーだけは動かなかった。

 飲まないのかとマルコが彼に声をかける。ラジーは、自分を見つめる三人を見た。飲めないのかと、楽しそうにマルコが言い、彼のグラスに手を伸ばす。ラジーは黙ってグラスを手渡し、言った。

 「酒は飲めない。あんた達の町を焼き、祝祭の食べ物を奪うのは、俺と同じ神を信じている奴らだ」

  ラジーは僅かに震える声で言った。ここで殺されても仕方がないと思った。気のいい運転手の顔も、爺さんの顔も見ることが出来ず、ラジーはリンを見た。リンは、唇の端を僅かに吊り上げ、小さく笑った。

 「私には判らない、たった一つの神を信じるなんて」

  彼女の言葉に、爺さんは息が抜けたような笑いを零した。

 「御嬢さんは、何を信じているのかね」

  爺さんの問いにリンはすこぶる真面目な顔をし、お金、と短く答えた。マルコは制帽を取り、両手の間で揉みつぶすようにしていた。ラジーの横顔を見つめた後、いつの間にか身を引きかけていた自分を恥じるように、一歩踏みよった。爺さんは、古びた薬缶を火にかけると、濃く良い香りを放つ珈琲を煎れはじめた。それからカウンターの上に、少し硬くなったパンやチーズを並べ始める。僅かなワインと粗末な食事。自分の為に用意されたコーヒー。それは特別なものにラジーには思えた。

 「何もなかったんじゃないのか」

 「マルコよ、お前の腹は膨れすぎだ」

  軽口を言い合う二人。ラジーは戸惑い、カウンターの上で固く組み合わせた己の両手を見つめる。爺さんはそんな彼に、穏やかに言った。

 「さぁ、食べようか」

  マルコがラジーの肩にそっと手を置き、息子に語りかけるように言った。

 「俺はお前さんを、ちゃんと町まで届けるよ」

 「私は神なんて信じない。人を救うのは、人なのよ」

  リンは厳かにそう呟き、自分だけ先にグラスを手に取り、柘榴色の液体を口にする。爺さんは薄く笑った。

 「全てのものに幸いあれ。年寄りの願いはそれだけだよ」

  そう言った爺さんの声は、微かに悲しみの滲んだ錆びた色だった。ラジーの遠い昔の青空のような瞳から、一粒の涙がこぼれる。マルコはその背をぽんと、優しく叩いてみせたのだった。

 

 

 fin

 

男子厨房に入るべからず 白玉

 山々が、黒い大きな生き物のように蹲って見える。今宵は仲秋のはずだが、まだ青灰色の空に月の姿は見えないでいる。風はもう夏の熱気を失い、開け放った車の窓からはざんざんと風が入り込み、伸びすぎた私の髪を散々にかき回す。浮かれた季節も仕事に追われ、結局は散髪に行くことも出来なかった。目指しているのは、私の勤める出版社が出す、タウン誌の表紙をお願いしている画家の、向坂さんの家だ。

 眠る獣のように静まっている山の懐に、向坂さんは一人でいて、今日はうかがいますから、と連絡を入れると、何故かお使いの品を沢山言いつかってしまい、私の車の後部座席は食材で満載だった。

「向坂さん、入りますよ」

 柔らかな橙色の灯の灯る玄関扉を開けながら私はそう声をかける。返事はない。両手にもった買い物袋で雑な音を立てつつ、私が黒光りする床板の上に上がろうとする。と、

「靴!」

 と奥から大きな声がした。向坂さんの声だ。私は慌てて引き返すと、入り口にある鋳鉄の沓摺で丹念に靴の裏をこする。この家は土足でいいのだが、この行為を忘れるとお小言をいただいてしまうのだ。

「ここに置きますよ」

 買い物の品を一枚板で出来た台所のカウンターに置くが、返事がない。気配のする奥の部屋、この山が見渡せるように硝子の大きな嵌め込み窓のある作業場にも姿はなく、そのまた奥の四畳ほどの和室に、向坂さんは正座していた。

今日は珍しく中途半端に伸びている髪を黒のゴム紐できちりと縛り、斜め後ろから覗く横顔は何時もの掴みどころのない穏やかさではなく、ひりりとしたものが眦にある。声をかけようかどうしようか、そんな私の逡巡が伝わったのか、向坂さんは振り返ると、よく日焼けした小さな顔に人懐こい笑顔を浮かべた。その笑顔には何時もの少年未満のような雰囲気はなく、年相応の女性に見えた。そんな感覚を初めて覚えた自分に少し戸惑い、私は目をそらした。四畳いっぱいに広がっているものに視線を向ける。

 銀灰色の空の中、薄い雲を纏う小さく澄み切った白金色の月が浮かんでいる。その月が照らしているのは果てない薄野原で、わずかに人の通った後のように細い道が、まるで月を目指すように伸びている。風に舞う薄は光を纏っているように仄かに浮かび上がる、そんな場所を何処か高い場所から静かに見下ろしている、その視界の端に茅の細い翠の葉がすっと横切り、夜露が一つ月明かりに濡れている、そんな画だった。

 板を渡した作業台の上には、白い皿が何枚も並んでいた。皿の上を、藍色や鈍色が飾っている。乳鉢には丁寧に擂られた胡粉

「露と答えて、とかなかったですかね」

 夜露の寂しい煌めきに私が呟けば、向坂さんは、おおという顔で大げさに驚いてみせる。

「朴念仁が在原業平を語るのか」

 笑った声のまま向坂さんは言う。私はわしわしと髪をかき回した。笑顔をちょっと消し、向坂さんはさっと立上ると、私を追い出すように四畳から出てしまう。画をまだ見ていたかった私だったが、そのまま押し出された。

向坂さんが本当に描きたいのはあんな絵なんだろうか。見慣れた作業場に立てかけてあるイーゼルには、水彩絵の具と色鉛筆で描かれ、青と薄紫、紫紺の色が美しい葛の花が咲いている。しかし、まだ絵は出来上がっていない模様だ。

 

 卓の上に置いたままになっていた食材を、向坂さんが冷蔵庫に運び入れている。手伝いたいが、このお宅の台所の入り口には、「男子厨房に入るべからず」という紙が張り付けてあるので、私は仕様がなく散らかっている紙やパステルを拾い集める。この人は夢中になるとてんで身の回りに構わなくなってしまうのだ。

「これ、外に飾ってくれる」

 ケント紙の束を抱えて私が振り返ると、向坂さんはこの家の中で一番新しい作りの対面式キッチンの向こうで、三方を手にしている。その上には栗や里芋が載せてあった。

「外?」

「縁側に薄を活けてるから、その横に」

 言われるままに玄関から出て西向きの縁側に出てみれば、確かに薄の活けてある花瓶があった。ああそうか、お月見ねと納得しながら、三方を横に飾る。この場所だと、ちょうど良い感じに月が見えるだろう。里芋を飾るというのは初めて見た。

 ひんやりとした夜風に身を震わせると、急いで母屋に戻る。早く絵を仕上げていただきたいものだ、この人は何時もぎりぎりだから。そんな私の思いも知らず、向坂さんは台所で真剣な顔でボウルを抱え何かを捏ねている。

「何を、なさってるんですか」

 私が呆れた調子で言えば、白玉、と単語が返ってくる。白玉? 覗き込めば、白いものを無心に捏ねている。手が疲れたと呟いて、そのボウルを私に押し付ける。

「耳たぶくらいの固さまで捏ねて、で、丸く、火が通りやすいようにちょっとぺったんこにしてください」

 またですか、そう言いたいのを堪えてボウルを受け取る。さり気なく自分の耳たぶを触ってみたら、濡れタオルを突き出されてしまう。粉の固さはもうちょうどよく、なんだか紙粘土の手触りのそれを拳ほどちぎると、言われた通りの形にしてみた。途端、向坂さんは笑い出す。

「大きすぎるって」

 私の手からそれを奪い取ると、ちょうど親指の先ほどの大きさにする。

ヘモグロビンの形」

 真ん中のくぼんだそれを見せて、向坂さんは笑う。ヘモグロビンとか、やめてください、赤血球じゃないですか。もう絵を仕上げる気持ちなど更々ないらしい向坂さんの言うとおり、せっせと白玉を私が丸めていくと、たっぷりのお湯でそれを彼女が茹で始める。火が通ると、白玉はぷかりと浮かび上がってきて、それを掬い上げると氷水にさらす。つるりと光る瑞々しい白玉は綺麗だった。

「あの露は白玉なのって、聞いた人が鬼に食われてしまいました、って歌でしょ、君が言っていたのは」

「そうでしたか?」

 そうなのよと、私の声に向坂さんの声が被る。私が内心首を傾げると、

「本当は姫君を誘拐しようとしてうまくいかなかったんだよね」

 ひそりと呟き、湯に浮かんでくる白玉を向坂さんはお玉で掬い上げている。私はただ白玉を千切っている。

「好いたお方と引き裂かれ、姫君は一門の為に帝に中宮として差し出されたわけです」

「はぁ」

「姫君の心は何処かに置いてきぼり」

 ぼんやり、向坂さんは言い、次にはくるりと表情を明るくし、私の顔を見てただにこりと笑った。

 瑞々しい白玉がバットに並ぶと、ご満悦の向坂さんは小さな声でなんだか古い曲を、確か、黄昏のビギンというタイトルの曲を歌っている。冷蔵庫から取り出されたホウロウのバットには、とろりとした粒餡が詰まっている。それを硝子の器に盛った白玉の上に、たっぷりとのせる。小豆はふっくらとして艶やかだ。私は差し出された木製の盆を受け取りながら、

「懐柔されませんからね、仕上げてくださいよ、明後日が入稿なんですから」

 私の小言も既に聞きなれてしまったのか、向坂さんはにかにかとして自分用と思われる器に山盛りの粒餡をのせる。そんな時、裏口でことりと音がした。先刻、三方を飾りに行った縁側辺りだ。その瞬間、向坂さんは粒餡を掬っていたお玉を抛り出すようにして、勝手口に向かい、勢いよく扉を開けた。

 

 丁度、山際に上ってきた満月の光が、ひたひたと辺りを潤し始めていた。山の頂は銀に染まり、薄の穂は燐光を放ち、揺れていた。里芋が一つ、縁側に転がっていた。私は、向坂さんの顔を何故だかみることが出来ない。

 しばらく彼女は月を眺めるでもなく立ち尽くしていたが、ゆっくりとした動作で転がっていた里芋を拾い上げると、三方にそっと戻した。

「冷えてきたね」

 私に向けた顔は何時もと変わらなかったけれども、もう一度振り返り彼女が眺めた草原は、ただ秋の虫がすだくばかりで、人の通った跡など何処にもなかった。まるで何事もなかったかのように、向坂さんは私にほうじ茶を入れると、自分は諦めたような足取りで作業場のイーゼルの前に向かう。

 そこにも、ひたひたと月の光が満ちていたけれど、硬質な光はそこに立つ人の影を精緻な人形のように見せる。

 向坂さんは、誰かを待っていたんだろうか。

 この沈黙が戸惑いであると悟られぬように、私は白玉を口に運ぶ。滑らかな喉越しに小さく頷き、しっかりと甘い粒餡の小豆を噛みしめる。微かな、黒糖の苦みがした。

 

 秋の終わり、新聞を見ていた編集長が突然に大きな声を出した。

「参ったな、向坂先生の稿料上げないとダメかな」

 編集長はそう言うと、私に紙面を指さして見せた。ある絵画展の入賞作が記されていた。金賞はカラーだったが、編集長が指さすのは銅賞。そこには、私が見たあの絵が白黒で収まっていた。「向坂 春(あずま)」と確かに。

「あげて差し上げてください」

 原稿の校正に戻りながら私が呟けば、編集長は淋しい頭頂部を自分の手で叩いている。

「その絵のお題は、何ですか?」

 私が訪ねれば、白玉、と編集長の答え。

 あの日見た月と、艶やかな白玉を思い出す。あれは、私が食べてもよかったのだろうか。

 ふと、そう思った。

 

 

 

男子厨房に入るべからず 翡翠

 時々、タウン誌の表紙を描いてもらっている人の家は、大きな農家を改造してある。農家らしい趣は、茅葺の屋根と母屋の入口ぐらいで、やたらと重い引戸を開けると、黒光りする床板が張ってあり、よく言えば重厚な応接セットが置いてある。けれどもこの家に客人が来ることは滅多になく、卓の上には読み差しの本や昨晩の酒席の名残でワインの瓶なんぞが、転がっていたりする。

 山があちこちでてんで勝手な緑色を見せる季節、夏号の表紙を受取りに、私はその家を訪れていた。

「向坂さん、ごめんください」

 玄関の扉をうんしょと開けて、薄暗い居間に声をかける。この家には間仕切がなくて、少し背伸びして覗けば、絵を描く作業場も見えるのだけれど、そこにも人の気配はない。私は腕時計を見る。明日までには原稿をもらわないと、印刷が間に合わない。

「こっちこっち」

 大きな声がして、玄関からまた外に出る。こっちだよ、と呼び声に誘導されながら、普段は滅多に入り込まない裏庭に行く。裏庭には確か、畑があるはずだった。

 わさわさと緑が繁る畑には、大きな麦わら帽子にTシャツ、シーンズ姿の向坂さんがいた。この向坂さんの絵にほれ込んでいる編集長は、向坂先生と呼ぶのだが、どう見ても相応しい貫禄がない。それもしようがない、年齢不詳の女性だし、全くに生活感がないのだ。自分で切っているという髪はいつも短いうえ、こう麦藁帽子がセットになると、少年未満の風情である。

「そら豆」

 ぶっとい果物ナイフのような緑色の細長い物体を私に見せて、向坂さんは笑ってみせる。どうやら、そら豆の収穫をしていたらしい。畑の畝を大またぎにして私の元へ近づくと、沢山のそら豆が入った笊を、私に手渡す。

 私の知っているそら豆は、たしか、黒い線がついていたが。そう思いながら緑色の豆鞘を手にしてみる。

「お豆はその中」

 今度は紫色の花を付けたラベンダーを摘み取りながら、向坂さんはそう言った。

 両手一杯のラベンダーを抱え、向坂さんはご機嫌に母屋に入る。玄関の鋳鉄の泥落しで靴裏をこそぐ。この家は土足でよいのだ。私も真似をすると、ひんやりとする母屋に入った。向坂さんはでっかい硝子の花瓶に無造作にラベンダーを生けこむ。脳みその奥まですっきりさせてくれる香が辺りにただよい、ご満悦な様子だった。私はそら豆の笊を手にしたまま、

「表紙をいただきにあがりました」

 そう言ってみる。しかし相手は鼻歌交じりに私の手から笊を受取ると、そのまま奥の台所に入っていく。しようがなしに、私はその後を追っかける。と、

「そこまで」

 いきなり声をかけられ、台所の入口にある柱に貼り付けてある薄汚れた紙を指差された。

 

「男子厨房に入るべからず」

 

 紙にはそう書いてあり、私は思わずぶっと吹き出してしまう。なんとも時代錯誤な言葉であるが、しかしそうであるからには入ってはならないのだろう。

 台所は居間と対面式になっていて、向坂さんはなにやらごそごそと棚をかき回している。やがてカウンター越しに、先ほどの笊を私に押し付けてくる。

「鞘を割って、お豆を出してね。綺麗に剥いて」

 私は、原稿をいただきにあがっだけですが。そういう言葉を言わせないほどの勢いであり、私の方を見もせずに人造大理石造りの洗い場で、米を研ぎ始める。

「いい時に来たね、たくさん小エビをいただいたの」

 いえ私がいただきたいのは原稿です。とは答えずに、豆鞘を剥くと、見たことのあるそら豆が顔を出す。その上にもう一枚薄皮があり、これをはがすのがなかなかに難儀なのだ。私が豆と格闘している間に、向坂さんは土鍋で米を炊き始める。それをすますと、この古風な趣の家の中で、唯一新しい冷蔵庫をあける。銀色のバットには、小エビがこんもりもってある。

 向坂さんは竹笊に小エビを入れると、手押しポンプでくみ上げた井戸水で素早く洗う。小エビは綺麗な紅色をしていた。その手元を覗き込むと、小エビと目が合う。さっと顔を背けると、そら豆の皮を剥く。豆鞘は大きかったが、中身はそんなに入っていない。

「雨が少なかったから、実入りが悪い」

 ぶつぶつ言っている向坂さんへ手を伸ばし、そら豆を渡す。向坂さんは、小エビの殻を剥いて頭をもいでいるところだった。小枝でも折るようにぱきっとエビの首のあたりと思われる場所をもぎ、節足動物のような足を殻ごと剥いていく。裸にされたエビの剥き身の横に、エビの哀れな外殻と頭ばかりが積まれている様はちょっとどきどきする。

「その頭は、捨てるんですよね」

「もったいない、お味噌汁の出汁にします」

 きっぱりと返事が返ってくる。そら豆、エビの剥き身。それをボウルの中に入れ、水溶き小麦粉と片栗粉、塩を少々。さくさくと菜ばしで交ぜている向坂さんの顔は嬉しそうであるが、私はすることがない。

「お手伝いしますが」

 私はそう言うが、向坂さんはちょっと小首を傾げた後、

「あ、色鉛筆、研いでおいてくれる」

 言って、作業台を指差した。

 

 窓際の作業台の上には、ファーバーカステルの色鉛筆が置いてある。六十色のこの色鉛筆を使い、パステルの温みを残しながら、鋭利な写真のような色使いの水彩画をあの人は生み出すわけだが、ただ今、台所で楽しそうに料理を作っている様子からすると、まだ絵が生まれてきそうではない。

 色鉛筆の入った木箱を、カウンターに持ち込むと箱に入っていた小刀で、私は鉛筆を削り始める。この箱を見れば、向坂さんの好みの色がよくわかる。青や緑、黄色の色鉛筆は背が低い。珍しく赤や桃色も先が丸くなっている。

 黙々と色鉛筆を削っていると、油のはぜる音がする。目だけあげると、丁度、鉄鍋に張った油の中に、向坂さんがそら豆とエビを小麦粉等で固めたものを投入している。なんとも軽やかな音と香ばしい匂いがする。見ていると、三つ揚げたとすれば、その内の一つは彼女の口に入っていく。熱いのか口元を僅かに尖らせ、はふはふと息をしながら、向坂さんは不意に尋ねてくる。

「車?」

 その問いに、私は手を削りそうになる。当たり前である、こんな山の中に徒歩でやってくるほどに酔狂ではない。頷くと、残念だねぇと呟きながら、彼女は冷蔵庫からコロナビールを一本取り出した。

 

 六十本の色鉛筆が研ぎ終わる頃、私の目の前にはお膳が並んでいた。

 炊きたてのご飯に、味噌汁。味噌汁の具はなんと、トマトである。そうして、先ほどのそら豆とエビ。小さなおろし金で薄桃色の塊を、がりがりと向坂さんは引っかいている。

「それは、なんでしょう?」

「岩塩です」

「はぁ」

 お膳を前に、私は首を傾げる。はて、確かに時間は昼時だけれども、今日はお昼をいただきに来たはずではなかった。

「原稿を……」

「冷めちゃうよ」

 向坂さんはそう言うと、二本目のコロナビールを左手に、色鉛筆を右手に持って作業台に向かう。食べないんですかと、問いかけたが、にこりと笑っただけだった。

 

 彼女の絵は、色鉛筆でしっかりと描きこんだあと、水を含ませた筆で絵をなぞる。そういう色鉛筆を、彼女は好んで使う。向坂さんの水彩画はそうやって、作られる。絵は仕上に入っているのか、彼女は筆を握っていた。私は急いで食事を終わらせようと、飯を口の中に押込むようにする。

「ゆっくり食べなさいよ」

 見えているのか、やんわり諭される。

 はい、そうですね。味噌汁を一口、トマトとの相性は悪くない。苦労して剥いたそら豆の揚げ物もエビと一緒に食うとこんなに美味いとは、知らなかった。思えばいつも、牛丼だとかかっこみ飯が普通になっていたので、こうやって食事をするのは久しぶりである。

「美味いです」

 素直に言えば、小さく頷き、ぐいとビールの瓶を傾ける向坂さんの姿が見えた。答えはない、向坂さんは、ただもうこの場に思いがないように、熱心に筆を動かしては、太陽の光が透けて落ちてくる大きな嵌め硝子の扉の向こうを、何かを見つけようとするように、時折、目を細めて見つめるのだ。

 向坂さんの色鉛筆には、沢山の緑色があった。今、この家を包んでいる辺りの山も、まるでパッチワークのように色の薄い緑や白っぽい緑や、ぼんやりした緑に包まれている。それには、どこかの誰かさんがつけた名前のある緑色なんだろう。

 箸で摘んだそら豆は、綺麗な薄緑色だった。

 

「お待ちどうでした」

 私の食事が終わるのを見越したように、向坂さんはケースに入れた原稿を手渡してくれる。絵はいつも、社に帰ってから見ることになっているので、私は礼を言いつつ受取った。食べた食器を下げようとすると、いいからいいからと遮られてしまう。

「あの張り紙ね、私がこの家を借りたときには既に張ってあったわけ。なんだか破ってしてしまうのも悪いしでね、そのままなの」

 向坂さんはそう言って、笑った。

「本日のお題は、翡翠です」

 続いて彼女はそう言うと、小さなタッパーを手渡してくれる。

翡翠揚げが入ってるから、自称単身赴任の編集長に差し上げて」

翡翠揚げ?」

「今日、君が食べた、そら豆のお料理の名前です」

 ひどく真面目な顔で、向坂さんはそう言った。

 

 雑居ビルの三階にある出版社に戻ったのは、夕方近くになっていた。他にも原稿をもらったり、お店紹介の記事を確認してもらったりで、意外と時間をくってしまう。山は涼しかったが、街中はむしむししていた。

「表紙であります」

 頭頂部だけ六十歳のような編集長にケースを手渡すと、待ってましたと絵を引き出す。この編集長が向坂先生の一番のファンなのだ。

 

「おお、カワセミだね」

 そんな声に手元を覗くと、木々の隙間から零れ落ちてくる光を集めた川面へ、今にも飛び込みそうな瑠璃色の嘴の長い小鳥が描いてある。半円に美しく開いた翼の一枚一枚が、薄く日に透け溶け込み、青い硝子細工のようにも見える。

翡翠とも書く」

 編集長の薀蓄を聞きながら、私はお土産の存在を思い出した。タッパーをあけると、翡翠揚げがきちんと並んでいる。

「向坂さんご謹製の、翡翠揚げです」

 そう言うと、編集長はごちんと拳固で私の額を突いた後、行儀悪く指で摘むと、一個を口に放り込む。油の付いた指をワイシャツで拭うと、絵をケースにしまった。

「ビールが飲みたくなった。付き合え。揚げたては、もっと美味いんだろうな」

 編集長はそう呟く。とても、先生のお宅でお膳を頂いたとは報告できない雰囲気だった。あの時に口にした翡翠揚げも、十分に美味かったが、もしかしたら、料理をしながらつまみ食いをしていた、向坂さんの方が、もっと美味しいと感じていたかもしれない。なんたって、ビール付きだった。

 なるほど、厨房には入れたくないわけだ。私は思わず、微笑してしまっていた。

 

 了

 

(添嶋譲さん、文藝コンピレーション提出作品)

 

     

 

 

書籍版「片隅」始動!

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