菅野樹のよもやま

創作、妄想、日々のもろもろ

この素晴らしい世界 第七回 短編小説の集い参加作品

novelcluster.hatenablog.jp

「花闇」お読みいただき、ありがとうございました。

今回は、未来。

難しいお題でございますが。

 

この素晴らしい世界 

 波の音が激しくなると、冷たい風がやってくることを、少年は知っている。海が荒れる前に、冬を越すための魚をとって、小さな畑にあるさつま芋の収穫をすませてしまわなければ。古びた毛布から体を引き抜くと、裂けた壁の隙間から覗く朝日に目を細める。粥を煮る匂いがする。もう起き出した父が、缶詰の鍋で朝飯を作っている。少年の名前は、アキといったが、もう、その名を呼んでくれる人は父しかいない。その父も、先年、母が風邪をこじらせあっけなく死んでしまってからは、急に寡黙になってしまった。

「今日はさ、魚を取りに行くよ!」

 アキは大きな声で父に言うと、コンクリートの剥落した階段を一気に駆け上り、建物の屋上を目指した。このなんだかむうとした匂いの場所からちょっとの間でも逃げ出して、新鮮な空気を吸いたい。 父が言うに、もう、水も大気も大地も、汚染されて、安全な場所などこの世の何処にもないと言う。それでも、朝がくれば太陽が見たい、風に頬を撫でてもらいたい。アキが駆け上ったのは、大きな建物の四階。青く青い広い空が、果てまで広がる。もうずいぶんと古い記憶で、ここが大きなショッピングセンターで、食べ物や色んなものに溢れてたことを微かに覚えているけれど、今や、この巨大な建物は空虚な空間となり、何組かの夫婦や家族が、まるでかかわりを避け、モグラのように暗闇に暮らしている。

 

  世界というものは、突然滅びてしまうのだと、アキは思っていた。けれども、本当は、少しずつ滅んでいく。大きな地震が街を襲ったのは夏の終わりの頃だった、どのぐらい前の夏だったかも思い出せない。助けが来ると待っている間に、台風が襲った。壊れた町が水に沈み、沢山の人が海に流された。そうして、この街は「外の世界」から切り離されてしまった。その後正確な情報をもらえないまま、取り残された人々は暴徒になった。疑心暗鬼にとらわれ、隣人を殺し、略奪が起こった。そうして「重大な何か」が起き、お金持ちや政府の関係者は、この街を見捨てて何処かに消えてしまった。

あれから何年経っただろう。もう、日数を数えることは止めてしまった。空しいだけだから。殺し合いを見た、奪い合いを見た。優しかったおじさんが、自分の母親を殺すのも見た。僕たちは、どこで間違ったんだろう。僕たちには、もう何の未来も残されていないのかもしれない。あの時、死んでしまった方が、よかったのかもしれない。そう思うこともある。でも、今生きている、だから、生きていなければならない。

 

   次の日の朝、隣に寝起きしていたおばあさんが、死んでいた。娘さんが失踪した後、食べ物を受け付けず、そう、断食して死んだのだ。娘さんは、腐った海を渡って何処に行ったか。おそらく、生きてはいないだろう。父は何一つ語らず、ひび割れたアスファルトをはぎ取ると、枯れ枝のように痩せ細ったその体を、土に埋めた。彼女の遺品は、小さな箱、オルゴールと、双眼鏡が一つ。

「どうやって使うの?」 

オルゴールを父に差し出すと、やはり無言のまま、裏側の螺子をまいた。ぱかりと蓋をあけると、明るく美しい音が流れてくる。それが、音楽というものだったと、アキはやっと思い出した。

「母さんが、好きだったな、星に願いを、という曲だ」 

父はそう呟くと、久しぶりに穏やかな顔をした。

その晩、暗闇の中で、父は何度もオルゴールを聞いていた。その、時折、弱い火に照らしだされる横顔がたまらなくて、アキは塒を抜け出すと、双眼鏡を片手に建物の屋上に上がった。降ってくるような星、遠くまで、ただひたすらに星しか見えない。その双眼鏡を右手に振った時、遥か遠く、山の麓に、アキはゆらりと揺れる灯を見た。

そう、間違いない、あれは灯。あれは、人が使っている灯に違いない。足元から震えが上ってくる。 自分達とは別に。生き残って、山の向こうに住んでいる人が。叫びだしたいほどに嬉しかったが、皆ほとんどが泥のような眠りに沈んだ時間だ。アキははやる気持ちを抑えながら、石像のように動かずに焚火を見つめ続ける父に近づく。

「父さん、ずっと向こうに灯が見える、小さな灯だ。ねえ、人がいるんだよ」

 アキは言うが、彼の方を向いてはくれなかった。アキは辛抱強く返事をまったが、父は彼の手から双眼鏡を取り上げ、古びた毛布の寝床をただ黙って指差しただけだった。 もう、何を言っても聞いてはくれない。アキは湿った毛布に潜り込み、やがてゆっくりと消えていく焚火の微かで頼りない色と、喘鳴のように空間に響く幾つかの寝息を聞きながら、闇が深まっていく中で目を瞑ることができなかった。 

このまま僕は、ここで朽ちていくのか? 先刻に目にした灯は、今や彼の胸の内を激しく揺さぶっていた。アキは目を閉じ、辺りが眠りにつくまで毛布に身をくるんでいた。息苦しげな寝息が安らかに深いものに変わる頃、彼は静かに寝床から抜け出した。シャツで作ったバックに、干し魚やまだ食べることのできる缶詰を詰め込む。会いにいく、会いにいくんだ。山の向こうの人に、それがどんな人か判らないけれど。このまま、ここで干からびてしまう前に。せめて。

   靴を脱ぎ、両手に抱え、アキはそっと朽ちかけた階段を下りていく。この場所は人工の島で、陸とこの土地を結んでいた橋は地震で崩落して渡ることが出来ない。だから、鈍く淀んだ海を渡っていかなければならないのだ。この海の水は腐っていて、入ればきっと皮膚がただれてしまうだろうと、少し前まで此処にいた学者は言っていた。その学者も、つい三か月前に奇妙な声を上げて、建物の上から海に飛び込み、姿を消してしまった。

「海を渡っていくのは危険だ」 

沈んだ父親の声に、アキは思わず荷物を落としそうになる。小さなランプを手にした父が、その灯の陰影のせいなのか、酷く打ちのめされた顔で、彼のすぐ前に立っていた。アキは口にする言葉が見つからない。そう、此処を出ていくということは、父を、棄てるということだからだ。

「こっちだ」 

だが父は何も言わず、アキに一つ荷物を手渡した。中を覗くと厚手の毛布とオルゴールが入っていた。闇を切り取る灯を掲げ、父は彼を「EXIT」と書いてある扉へと誘う。そこは地下へと通じる長い階段で、普段は入ってはいけないと言われている場所だった。

「この奥に、陸(おか)に通じるトンネルがある。ただ、我々がこの島に籠った時、食糧の取り合いで騒ぎになった。その時、ここは封鎖してしまった」 

淡々と父は語りながら、大きな二枚開きの鉄扉の前に積み重なっている椅子やテーブルをどかし始めた。アキは黙ってその手伝いをする。使えそうなものは、父が袋に入れていく。やがて一時もすると、錆びた鎖に封印された鍵が表れる。スコップでそれを叩き崩すと、父はゆっくりと扉を押し開いた。錆つき、傷ついた音が、ぎりぎりとアキの鼓膜を焼いた。

アキは父を見上げる。陽に焼け小さな皺に飾られた顔を、己の記憶に留めるかのようにアキはじっと見つめた。父もまた、指先の破れた軍手のままの手で、彼の頬をそっと一度だけ、優しく撫でてくれた。それから何も言わず、背中を向けると暗闇の中に溶け込んでしまうのだった。

トンネルはとても長かった。足元に、なんだか色んなものが触れた。踏みつけたものが枯れた音がして砕ける感触もあったが、決して目を開けず、教えられた通りトンネルに左手を着いて、ひたすらに緩い坂を上り続けた。固く閉じた瞼に、やがて薄赤い光の気配がする頃、彼はやっと目を開けた。 彼の体が通るほどの小さな隙間から、光が隧道を切り取っている。荷物を先に押し出し、彼が這い出たその先には、踏み固められた土ではなく、かさかさとした枯れた草の原があった。灰色の空の中空にまで太陽は昇っていたが、分厚い雲に遮られ、熱はなかった。アキは大きく息を吐くと、もうただの一度も黒い海の上にあるコンクリートの廃墟を振り返らず、草茂る場所へ、一歩を踏み出していた。

 

目の前に広がる草原には道路が埋もれていた。それは大きな国道だったはずだが、手を入れることがなくなったアスファルトの裂け目からいろんな草が顔を出し、一面を覆い尽くしていた。

陸(おか)は、自分がいた場所よりも激しく荒廃していた。木造の家はほとんどが焼け落ち、コンクリートのビルの壁には、砲弾の痕が幾つもあった。それでも焼け落ちた家よりも安全であろうと、二階建てのビルに入っていく。屋根は残っているし、ガラスは割れているが扉は閉まる。衣料品の店舗だったのか、床に転がっているマネキンが死体のようだった。階段は鉄筋だけを残し無くなっていたが、身軽なアキならば上ることができた。とにかく、高い所だ。風の当たらない場所を探しているとき、微かな物音にアキは動きを止める。

野犬が上がってきたのか。アキは荷物の中に押し込んでいた、拾い物の拳銃を取り出した。弾は二発しかない。撃鉄を上げる音がかちりとすれば、「撃たないで」とか細い少女の声がした。だが気配は近づいてこない。アキはそろりと暗がりを覗けば、自分と同じ年ほどの、格好は彼と大して変わらないが、僅かに匂やかな曲線で少女と判る子が、蹲っていた。

「こんなところで人に会えるなんて」

 二人は喘ぐように、同時に呟いていた。警戒の眼差しのまま、アキは少女から少し離れたところに腰かける。少女は疲れているようで、毛布らしき塊に凭れたままでいる。

「水を持ってる?」

 乾いた声で少女が言う。アキは少し躊躇ってが、自分の荷物からペットボトルを取り出した。携帯浄水器は後三個。少女はそんなアキの心配をよそに、あっという間に水を飲み干し、激しくむせた。アキが思わず手を伸ばすと、素早く交わす。そうして二人の間に沈黙が落ちてくる。どうしたものかと思いながら、彼が荷物から僅かな食糧を取り出す。少女はぎらついた目でいる。しようがないので、乾パンを渡す。彼女はそれを口に入れると、少し穏やかな目になった。

「何処から来たの」

 少女の問い。アキは火をおこすものをまとめながら、「海」とそっけなく答えた。すると彼女はがばっと身を起こし、

「人工の島から来たの?」

「そうだよ」

「ああ、あそこには人が生き残ってるって聞いたの!」

 熱を帯びた彼女の言葉。アキは僅かに身じろぎをする。そんな明るい声、久方聞いた記憶がない。

「ずっとね、誰か気付いてくれないかって、私、山にいたの。ずっと、灯を、海に向かって灯を毎晩振っていたの。でも電池が切れたから。みんな行くなって行ったけど、死んだまま生きるのは嫌だから、一人でここまで来たの。昨日野犬に追われて、足を挫いて……」

「灯を、振っていたのは君なの?」

 アキは目を丸くし、少女を見つめる。少女は小さく笑った。薄汚れてはいたが、本当に零れる笑顔だった。ろくな暖かそうな服もなく、毛布にくるまったままの少女。それでも、人に会えた嬉しさで生き生きとしている。

「私、ハルカ」

「……アキ」

 二人はほんの一時、見つめ合う。外はまた、激しい風が吹き始めている。この出会いを、僕はどうしたらいいのだろう。あんなに渇望したのに、今、とても戸惑っている。アキはそう思い、散らかした荷物を見下ろす。隅に転がっていたオルゴールが、「星に願いを」のワンフレーズを歌い、止まる。沈黙の中で、二人は見つめ合う。もう神などいないと知った僕らは、未来を自分たちで願い、開くしかないのだろう。だが、あまりに厳しい。あまりに辛い。あんなに会いたかったのに、何故だが涙が溢れてきた。ハルカは彼の顔を見つめ、ちょっとシニカルに笑った。

「先のことなんて、考えてもしようがないと思ったの。だって、自分でどうにかしないといけない現実しかここにはないんだもの」

「それでも僕は」

 アキは言いかけ、止めにした。

 切り開くんじゃない、未来を、生きる道を僕らは「理不尽な何か」からもぎ取るしかないのだろうか。ハルカが乾パンの二つ目を齧り始める。そうだ、まずは、生きることだよ。アキは小さく笑い、もう望むことも出来なくなった「人工島」の辺りをみた。漆黒の中に、僅かに揺れる小さな灯をみたような気がした。

 あまりに頼りない、灯ではあったけれど。ほんの少し、未来を信じてもいいような気がした。

 

  fin

 

くだきつね

茫々たる薄野原の真ん中で、萩の花枝を幾本か右手に持った狩衣姿の男がいる。

歳の頃は、四十ほど。空に昇りゆく煌々と冴えた月を眺めている。


はて、紅葉狩りにと出かけてみたが、どうやら迷い子になってしまったらしい。

従者の姿も、何もない。

 

けれども、今の彼は楽しかった。


先刻、白い子狐を見たせいだ。


子狐は彼の気配に気付ぬまま、二本の足で立ち上がり、なんと器用に枝垂れた薄紫の萩の花を口で咥えて摘んだのだ。


沢山摘んだはずなのに、獣の口ゆえに取りこぼしてしまう。

 

さてそれを何処に持ち去るのやらと、子狐が落とした萩を拾いながら追いかけていたら、薄野原に迷い込んでしまった。

 

途方にくれる彼の耳に、やがて微かに童の泣き声が聞こえてくる。


薄闇の中に目をこらせば、野原の先に破れ家がある。

声はそこから聞こえてくるが、灯もなくあちこち傾き、屋根は落ち、なんとも怪しげである。

 

であるが、童が泣いているのなら、慰めてやらねばならん。


そう思い近づけば、今度は女人の声がする。

童を攻めているようだった。

 

――かように少ない萩の花なぞいらぬわいな。 


その言葉に、彼がくすりと小さく声を出して笑った途端、


「誰やある」


声が厳しくなり、破れ家の引戸が音もなくすいと開く。


紙燭を手に顔を覗かせたのは、落栗色の女房装束の女である。


彼は笑いをかみ殺し、自分の手にしていた萩の花を差し出す。


萩と彼を見比べた女の顔が、寸の間、狐のように尖った気がしたが、知らぬ振りをしていると、女は彼を奥へと手招く。


躊躇ったが、なに、夜長に後の語り草にしてやろうと、畏れるふうもなく入り込んだ。

 

高貴な香りと、瞬く灯明。

扉の内の世界は何処に繋がるのか、板敷きには絢爛な女房装束を身に着けた、女が二人向き合っている。


二人とも、大層に美しかった。


青磁の壷に萩の花を飾るのは可愛らしい童で、彼と目が会えば深々と頭を下げた。


先刻の子狐らしい。


「やや、そなた我らが見えるらしいが、くさい、護摩くさい、臭いぞ」


女郎花の襲装束、白い顔の美しい女が言う。

一瞬、顔がつーんと狐に見えたのは、気のせいだろうか? 

もう一人の落栗色の女房も、鼻を蠢かせていた。


「お主、陰陽師か?」


険しい顔と声に、男は穏やかに微笑む、


「いえいえ、辻占や筮竹をやりますだけでございます」

 

「しかし、臭い、これでは食えぬ。ところでお主、これより我らは竜田姫様のお召ででかけるのだが、どちらか一人と言われてしもうた。人の子の知恵は借りとうないが、どちらが美しいか?」


女郎花の女が膝を詰めてくる。

男は二人を交互に見比べ、お二人とも大変にお美しいと答えた。


「ならぬ、ならぬ、それではならぬ」


二人は駄々っ子のように言う。


男はぽんと膝を叩いた。


「やんごとなき竜田姫の御前ならば、術の優れたお方はいかがでしょうか」

 

男の言葉に女達は顔を見合わせる。


途端、落栗の女が天井に届くほどの白蛇に化けた。


銀の鱗の美しい蛇であるが、なにより、でかい。


すると、女郎花の女は純白の大犬に化けて見せる。


睨み合う二人に、男は両手を振った。

 

「これでは恐ろしゅうて、竜田姫様もお気に召しますまい。こう、なにかお小さくて、かわいらしいものに」

 

男の言葉に、二人は次々と姿を変える。


鶴。


鴇。

孔雀。

 

その度に男が首を横に振ると、やがて、ちょんと、可愛らしく小さな野栗鼠と子猫に変わった。

 


すると、男はにんわりと笑い、不意に懐から竹筒を二つ取り出すと、いとも簡単に野栗鼠と子猫を摘みあげ、何かを呟くと、其々を竹筒の中に、すぽん、と封じてしまった。

 

驚いたのは、見守っていた狐童である。


男はにこりと笑いかける。

狐童はくるりと身軽にとんぼを切ると、真っ白な子狐に戻り、その場から逃げだした。


すると、屋敷も何もかも消えてしまったのだった。

 

 

「お師匠さま、お師匠さま!」

 

薄野原をかき分けて、彼の可愛がるまだ年若い弟子が走ってくる。


いかがなさいましたかと、賢しげな瞳で聞いてくる。

「管狐を、手に入れたよ。ちょっと、気の毒であったかな」


師匠はそう言うと、二本の管を弟子に渡した。


まだ初々しい水干の童は、管を珍しそうに眺めている。

 

「お師匠、月が随分と傾きましたよ。まだあやかしがおるやもしれません」

 

「なに、お前が側にいてくれたら、私は安心だよ」


そんな二人の耳に、けーんけーんと遠くで啼く狐の声がした。


もう月は中空にある。

 

「童子丸よ、お主の母御も狐であったな」

 

噂話を何気なく師匠が口にすると、白い横顔の美しい童は困ったように顔を伏せたのだった。

 


賀茂忠行、当代一の陰陽師に出会ったのは、狐たちは不運であったろう。

 

管が童子丸の手の中で、抗議するように、かたかたと、鳴っていた。

 

 

    了

 

 

お江戸小噺 ゆうづつ

 三味線の糸が切れ、さっくり小指が切れてしまった。お幸は泣きそうな顔をして、血が滲む小指を口に含む。
 あぁ、いやだ。くさくさする。もう、何日も、人と話していない、ご飯も食べていないような気がする。買い置いていた酒だけが、減っていく。このお江戸の空の下、自分よりも不幸な女は数多あろうに、今は己がただ可哀想。
 暫く自分を慰める愚痴を何度も胸の内で繰り返し、連子窓から差し込む、弱々しい日の光をぼんやりと目で追いかけていたお幸は、三味線を抱えたまま小さな咳を繰り返した。襦袢で口元を覆い、きゅっと目をつむる。こんなに弱々しい気持ちでいるのは、きっと、風邪をひいたせいだ。風邪で寺子屋と三味線の教えを休んでしまったら、綺麗に他の人に、もっていかれてしまった。
 実家はそこそこ裕福だけれども、出戻った身、お金の無心も兄嫁に気がひける。目の端に、台所に放り出した包丁が引っかかる。あれで、ぽんと喉でも付けば、息が抜けて楽だろうに。
 そう考えながら、薄く笑った。そんな元気がないもので、今いるこの身。


「おーい、生きてるかい」
 思わず、飛び上がるような大声を上げ、土間に入ってきたのは、五つ年上の幼馴染、左官職人の卯吉だった。お幸の処によってくれるのは、彼ぐらいのものだ。なんだか駆け出したいほどに気持ちが騒ぐのを、ほっと息を一つ吐いておさめる。素直でないのは童の時からの性分だ。
「お前さんの大声で、心の臓がとまりそうだったよ」
 憎たらしいように言い返してみたが、卯吉はただ笑っている。いい男なのに、未だに独り身だった。
「ちょいと付き合いな」
「嫌だね」
「いいからよ」
 卯吉はお幸の手を掴むと、外へ出た。

 通りを行く、二人を近所の人が見つめている。出戻りで病持ち、こんな女と一緒にいては、卯吉の評判に傷が付く。お幸は俯いていた。
「皆、見てるよ」
 泣きそうな声でお幸が呟く。自分のつま先ばかり見て、ちっとも前を向くことが出来ない。
「ほっとけ、めんどくせぇ」
 誰に聞かせるためなのか、殊更にでかい声で、卯吉が答えた。やがて彼が手を引いて連れて行ってくれたのは、今日、仕事をしたとかいう、大店だった。びいどろだとか、そんな舶来の洒落たものを扱うお店だ。その軒に、梯子が掛かっていた。お幸が首を傾げる暇もないままに、卯吉は軽々とその体を担ぎ上げ、梯子を上り始める。
「この馬鹿、なにすんだよ!」
 拳固で背中を叩くが、卯吉はけらけら笑っている。
 軽いなぁ、飯食えよ。その呟きが、痛かった。


「ほれ」
 屋根の上にお幸を座らせると、卯吉は西の空を指差した。夕日の奥に、富士のお山が見える。その裾に、細い三日月が見えた。茜と群青の交じった空の藻裾、そこに浮かぶ、三日月。お足元には、白玉が一つ。
寺子屋で習ったろう、ゆうづつだぜ」
 卯吉が童のような顔をして、その星を指差した。お幸は答える言葉も選べずに、その顔を一時見つめた後、自分の上に広がる空を見上げた。ああ、と知らずに小さく彼女は呟いている。
 空なんて、随分と久しぶりに見る。
 お幸は何も言わないまま、その真珠のような光を見た。三日月の裾に、儚く光る一粒。黙って見つめていたいのに、綺麗だろと、卯吉が得意げに言うのが、少し、癪に触った。
「気が晴れたかい」
 卯吉の問いには、わざと答えないでおく。代わりに、
「心太が食べたい」
 と、言ってみた。すると、本当に食べたくなった。黒蜜と黄粉をかけて。
「此処でかよ」
「そう、お星様観ながら」
「ぬかせぇい」
 そう言いながらも、卯吉は梯子を下りていく。どうやら、本気で食べさせてくれるらしい。お幸が小さく微笑んだ。その色の薄い、小さな唇から、ほうと息が抜けていき、初夏の風と一緒に、夕空に舞い上がった。
「ゆうづつ」
 童女のように呟いたお幸の顔は、穏やかで、柔らかだった。


   了