くだきつね
茫々たる薄野原の真ん中で、萩の花枝を幾本か右手に持った狩衣姿の男がいる。
歳の頃は、四十ほど。空に昇りゆく煌々と冴えた月を眺めている。
はて、紅葉狩りにと出かけてみたが、どうやら迷い子になってしまったらしい。
従者の姿も、何もない。
けれども、今の彼は楽しかった。
先刻、白い子狐を見たせいだ。
子狐は彼の気配に気付ぬまま、二本の足で立ち上がり、なんと器用に枝垂れた薄紫の萩の花を口で咥えて摘んだのだ。
沢山摘んだはずなのに、獣の口ゆえに取りこぼしてしまう。
さてそれを何処に持ち去るのやらと、子狐が落とした萩を拾いながら追いかけていたら、薄野原に迷い込んでしまった。
途方にくれる彼の耳に、やがて微かに童の泣き声が聞こえてくる。
薄闇の中に目をこらせば、野原の先に破れ家がある。
声はそこから聞こえてくるが、灯もなくあちこち傾き、屋根は落ち、なんとも怪しげである。
であるが、童が泣いているのなら、慰めてやらねばならん。
そう思い近づけば、今度は女人の声がする。
童を攻めているようだった。
――かように少ない萩の花なぞいらぬわいな。
その言葉に、彼がくすりと小さく声を出して笑った途端、
「誰やある」
声が厳しくなり、破れ家の引戸が音もなくすいと開く。
紙燭を手に顔を覗かせたのは、落栗色の女房装束の女である。
彼は笑いをかみ殺し、自分の手にしていた萩の花を差し出す。
萩と彼を見比べた女の顔が、寸の間、狐のように尖った気がしたが、知らぬ振りをしていると、女は彼を奥へと手招く。
躊躇ったが、なに、夜長に後の語り草にしてやろうと、畏れるふうもなく入り込んだ。
高貴な香りと、瞬く灯明。
扉の内の世界は何処に繋がるのか、板敷きには絢爛な女房装束を身に着けた、女が二人向き合っている。
二人とも、大層に美しかった。
青磁の壷に萩の花を飾るのは可愛らしい童で、彼と目が会えば深々と頭を下げた。
先刻の子狐らしい。
「やや、そなた我らが見えるらしいが、くさい、護摩くさい、臭いぞ」
女郎花の襲装束、白い顔の美しい女が言う。
一瞬、顔がつーんと狐に見えたのは、気のせいだろうか?
もう一人の落栗色の女房も、鼻を蠢かせていた。
「お主、陰陽師か?」
険しい顔と声に、男は穏やかに微笑む、
「いえいえ、辻占や筮竹をやりますだけでございます」
「しかし、臭い、これでは食えぬ。ところでお主、これより我らは竜田姫様のお召ででかけるのだが、どちらか一人と言われてしもうた。人の子の知恵は借りとうないが、どちらが美しいか?」
女郎花の女が膝を詰めてくる。
男は二人を交互に見比べ、お二人とも大変にお美しいと答えた。
「ならぬ、ならぬ、それではならぬ」
二人は駄々っ子のように言う。
男はぽんと膝を叩いた。
「やんごとなき竜田姫の御前ならば、術の優れたお方はいかがでしょうか」
男の言葉に女達は顔を見合わせる。
途端、落栗の女が天井に届くほどの白蛇に化けた。
銀の鱗の美しい蛇であるが、なにより、でかい。
すると、女郎花の女は純白の大犬に化けて見せる。
睨み合う二人に、男は両手を振った。
「これでは恐ろしゅうて、竜田姫様もお気に召しますまい。こう、なにかお小さくて、かわいらしいものに」
男の言葉に、二人は次々と姿を変える。
鶴。
鴇。
孔雀。
その度に男が首を横に振ると、やがて、ちょんと、可愛らしく小さな野栗鼠と子猫に変わった。
すると、男はにんわりと笑い、不意に懐から竹筒を二つ取り出すと、いとも簡単に野栗鼠と子猫を摘みあげ、何かを呟くと、其々を竹筒の中に、すぽん、と封じてしまった。
驚いたのは、見守っていた狐童である。
男はにこりと笑いかける。
狐童はくるりと身軽にとんぼを切ると、真っ白な子狐に戻り、その場から逃げだした。
すると、屋敷も何もかも消えてしまったのだった。
「お師匠さま、お師匠さま!」
薄野原をかき分けて、彼の可愛がるまだ年若い弟子が走ってくる。
いかがなさいましたかと、賢しげな瞳で聞いてくる。
「管狐を、手に入れたよ。ちょっと、気の毒であったかな」
師匠はそう言うと、二本の管を弟子に渡した。
まだ初々しい水干の童は、管を珍しそうに眺めている。
「お師匠、月が随分と傾きましたよ。まだあやかしがおるやもしれません」
「なに、お前が側にいてくれたら、私は安心だよ」
そんな二人の耳に、けーんけーんと遠くで啼く狐の声がした。
もう月は中空にある。
「童子丸よ、お主の母御も狐であったな」
噂話を何気なく師匠が口にすると、白い横顔の美しい童は困ったように顔を伏せたのだった。
賀茂忠行、当代一の陰陽師に出会ったのは、狐たちは不運であったろう。
管が童子丸の手の中で、抗議するように、かたかたと、鳴っていた。
了