菅野樹のよもやま

創作、妄想、日々のもろもろ

男子厨房に入るべからず 翡翠

 時々、タウン誌の表紙を描いてもらっている人の家は、大きな農家を改造してある。農家らしい趣は、茅葺の屋根と母屋の入口ぐらいで、やたらと重い引戸を開けると、黒光りする床板が張ってあり、よく言えば重厚な応接セットが置いてある。けれどもこの家に客人が来ることは滅多になく、卓の上には読み差しの本や昨晩の酒席の名残でワインの瓶なんぞが、転がっていたりする。

 山があちこちでてんで勝手な緑色を見せる季節、夏号の表紙を受取りに、私はその家を訪れていた。

「向坂さん、ごめんください」

 玄関の扉をうんしょと開けて、薄暗い居間に声をかける。この家には間仕切がなくて、少し背伸びして覗けば、絵を描く作業場も見えるのだけれど、そこにも人の気配はない。私は腕時計を見る。明日までには原稿をもらわないと、印刷が間に合わない。

「こっちこっち」

 大きな声がして、玄関からまた外に出る。こっちだよ、と呼び声に誘導されながら、普段は滅多に入り込まない裏庭に行く。裏庭には確か、畑があるはずだった。

 わさわさと緑が繁る畑には、大きな麦わら帽子にTシャツ、シーンズ姿の向坂さんがいた。この向坂さんの絵にほれ込んでいる編集長は、向坂先生と呼ぶのだが、どう見ても相応しい貫禄がない。それもしようがない、年齢不詳の女性だし、全くに生活感がないのだ。自分で切っているという髪はいつも短いうえ、こう麦藁帽子がセットになると、少年未満の風情である。

「そら豆」

 ぶっとい果物ナイフのような緑色の細長い物体を私に見せて、向坂さんは笑ってみせる。どうやら、そら豆の収穫をしていたらしい。畑の畝を大またぎにして私の元へ近づくと、沢山のそら豆が入った笊を、私に手渡す。

 私の知っているそら豆は、たしか、黒い線がついていたが。そう思いながら緑色の豆鞘を手にしてみる。

「お豆はその中」

 今度は紫色の花を付けたラベンダーを摘み取りながら、向坂さんはそう言った。

 両手一杯のラベンダーを抱え、向坂さんはご機嫌に母屋に入る。玄関の鋳鉄の泥落しで靴裏をこそぐ。この家は土足でよいのだ。私も真似をすると、ひんやりとする母屋に入った。向坂さんはでっかい硝子の花瓶に無造作にラベンダーを生けこむ。脳みその奥まですっきりさせてくれる香が辺りにただよい、ご満悦な様子だった。私はそら豆の笊を手にしたまま、

「表紙をいただきにあがりました」

 そう言ってみる。しかし相手は鼻歌交じりに私の手から笊を受取ると、そのまま奥の台所に入っていく。しようがなしに、私はその後を追っかける。と、

「そこまで」

 いきなり声をかけられ、台所の入口にある柱に貼り付けてある薄汚れた紙を指差された。

 

「男子厨房に入るべからず」

 

 紙にはそう書いてあり、私は思わずぶっと吹き出してしまう。なんとも時代錯誤な言葉であるが、しかしそうであるからには入ってはならないのだろう。

 台所は居間と対面式になっていて、向坂さんはなにやらごそごそと棚をかき回している。やがてカウンター越しに、先ほどの笊を私に押し付けてくる。

「鞘を割って、お豆を出してね。綺麗に剥いて」

 私は、原稿をいただきにあがっだけですが。そういう言葉を言わせないほどの勢いであり、私の方を見もせずに人造大理石造りの洗い場で、米を研ぎ始める。

「いい時に来たね、たくさん小エビをいただいたの」

 いえ私がいただきたいのは原稿です。とは答えずに、豆鞘を剥くと、見たことのあるそら豆が顔を出す。その上にもう一枚薄皮があり、これをはがすのがなかなかに難儀なのだ。私が豆と格闘している間に、向坂さんは土鍋で米を炊き始める。それをすますと、この古風な趣の家の中で、唯一新しい冷蔵庫をあける。銀色のバットには、小エビがこんもりもってある。

 向坂さんは竹笊に小エビを入れると、手押しポンプでくみ上げた井戸水で素早く洗う。小エビは綺麗な紅色をしていた。その手元を覗き込むと、小エビと目が合う。さっと顔を背けると、そら豆の皮を剥く。豆鞘は大きかったが、中身はそんなに入っていない。

「雨が少なかったから、実入りが悪い」

 ぶつぶつ言っている向坂さんへ手を伸ばし、そら豆を渡す。向坂さんは、小エビの殻を剥いて頭をもいでいるところだった。小枝でも折るようにぱきっとエビの首のあたりと思われる場所をもぎ、節足動物のような足を殻ごと剥いていく。裸にされたエビの剥き身の横に、エビの哀れな外殻と頭ばかりが積まれている様はちょっとどきどきする。

「その頭は、捨てるんですよね」

「もったいない、お味噌汁の出汁にします」

 きっぱりと返事が返ってくる。そら豆、エビの剥き身。それをボウルの中に入れ、水溶き小麦粉と片栗粉、塩を少々。さくさくと菜ばしで交ぜている向坂さんの顔は嬉しそうであるが、私はすることがない。

「お手伝いしますが」

 私はそう言うが、向坂さんはちょっと小首を傾げた後、

「あ、色鉛筆、研いでおいてくれる」

 言って、作業台を指差した。

 

 窓際の作業台の上には、ファーバーカステルの色鉛筆が置いてある。六十色のこの色鉛筆を使い、パステルの温みを残しながら、鋭利な写真のような色使いの水彩画をあの人は生み出すわけだが、ただ今、台所で楽しそうに料理を作っている様子からすると、まだ絵が生まれてきそうではない。

 色鉛筆の入った木箱を、カウンターに持ち込むと箱に入っていた小刀で、私は鉛筆を削り始める。この箱を見れば、向坂さんの好みの色がよくわかる。青や緑、黄色の色鉛筆は背が低い。珍しく赤や桃色も先が丸くなっている。

 黙々と色鉛筆を削っていると、油のはぜる音がする。目だけあげると、丁度、鉄鍋に張った油の中に、向坂さんがそら豆とエビを小麦粉等で固めたものを投入している。なんとも軽やかな音と香ばしい匂いがする。見ていると、三つ揚げたとすれば、その内の一つは彼女の口に入っていく。熱いのか口元を僅かに尖らせ、はふはふと息をしながら、向坂さんは不意に尋ねてくる。

「車?」

 その問いに、私は手を削りそうになる。当たり前である、こんな山の中に徒歩でやってくるほどに酔狂ではない。頷くと、残念だねぇと呟きながら、彼女は冷蔵庫からコロナビールを一本取り出した。

 

 六十本の色鉛筆が研ぎ終わる頃、私の目の前にはお膳が並んでいた。

 炊きたてのご飯に、味噌汁。味噌汁の具はなんと、トマトである。そうして、先ほどのそら豆とエビ。小さなおろし金で薄桃色の塊を、がりがりと向坂さんは引っかいている。

「それは、なんでしょう?」

「岩塩です」

「はぁ」

 お膳を前に、私は首を傾げる。はて、確かに時間は昼時だけれども、今日はお昼をいただきに来たはずではなかった。

「原稿を……」

「冷めちゃうよ」

 向坂さんはそう言うと、二本目のコロナビールを左手に、色鉛筆を右手に持って作業台に向かう。食べないんですかと、問いかけたが、にこりと笑っただけだった。

 

 彼女の絵は、色鉛筆でしっかりと描きこんだあと、水を含ませた筆で絵をなぞる。そういう色鉛筆を、彼女は好んで使う。向坂さんの水彩画はそうやって、作られる。絵は仕上に入っているのか、彼女は筆を握っていた。私は急いで食事を終わらせようと、飯を口の中に押込むようにする。

「ゆっくり食べなさいよ」

 見えているのか、やんわり諭される。

 はい、そうですね。味噌汁を一口、トマトとの相性は悪くない。苦労して剥いたそら豆の揚げ物もエビと一緒に食うとこんなに美味いとは、知らなかった。思えばいつも、牛丼だとかかっこみ飯が普通になっていたので、こうやって食事をするのは久しぶりである。

「美味いです」

 素直に言えば、小さく頷き、ぐいとビールの瓶を傾ける向坂さんの姿が見えた。答えはない、向坂さんは、ただもうこの場に思いがないように、熱心に筆を動かしては、太陽の光が透けて落ちてくる大きな嵌め硝子の扉の向こうを、何かを見つけようとするように、時折、目を細めて見つめるのだ。

 向坂さんの色鉛筆には、沢山の緑色があった。今、この家を包んでいる辺りの山も、まるでパッチワークのように色の薄い緑や白っぽい緑や、ぼんやりした緑に包まれている。それには、どこかの誰かさんがつけた名前のある緑色なんだろう。

 箸で摘んだそら豆は、綺麗な薄緑色だった。

 

「お待ちどうでした」

 私の食事が終わるのを見越したように、向坂さんはケースに入れた原稿を手渡してくれる。絵はいつも、社に帰ってから見ることになっているので、私は礼を言いつつ受取った。食べた食器を下げようとすると、いいからいいからと遮られてしまう。

「あの張り紙ね、私がこの家を借りたときには既に張ってあったわけ。なんだか破ってしてしまうのも悪いしでね、そのままなの」

 向坂さんはそう言って、笑った。

「本日のお題は、翡翠です」

 続いて彼女はそう言うと、小さなタッパーを手渡してくれる。

翡翠揚げが入ってるから、自称単身赴任の編集長に差し上げて」

翡翠揚げ?」

「今日、君が食べた、そら豆のお料理の名前です」

 ひどく真面目な顔で、向坂さんはそう言った。

 

 雑居ビルの三階にある出版社に戻ったのは、夕方近くになっていた。他にも原稿をもらったり、お店紹介の記事を確認してもらったりで、意外と時間をくってしまう。山は涼しかったが、街中はむしむししていた。

「表紙であります」

 頭頂部だけ六十歳のような編集長にケースを手渡すと、待ってましたと絵を引き出す。この編集長が向坂先生の一番のファンなのだ。

 

「おお、カワセミだね」

 そんな声に手元を覗くと、木々の隙間から零れ落ちてくる光を集めた川面へ、今にも飛び込みそうな瑠璃色の嘴の長い小鳥が描いてある。半円に美しく開いた翼の一枚一枚が、薄く日に透け溶け込み、青い硝子細工のようにも見える。

翡翠とも書く」

 編集長の薀蓄を聞きながら、私はお土産の存在を思い出した。タッパーをあけると、翡翠揚げがきちんと並んでいる。

「向坂さんご謹製の、翡翠揚げです」

 そう言うと、編集長はごちんと拳固で私の額を突いた後、行儀悪く指で摘むと、一個を口に放り込む。油の付いた指をワイシャツで拭うと、絵をケースにしまった。

「ビールが飲みたくなった。付き合え。揚げたては、もっと美味いんだろうな」

 編集長はそう呟く。とても、先生のお宅でお膳を頂いたとは報告できない雰囲気だった。あの時に口にした翡翠揚げも、十分に美味かったが、もしかしたら、料理をしながらつまみ食いをしていた、向坂さんの方が、もっと美味しいと感じていたかもしれない。なんたって、ビール付きだった。

 なるほど、厨房には入れたくないわけだ。私は思わず、微笑してしまっていた。

 

 了

 

(添嶋譲さん、文藝コンピレーション提出作品)