菅野樹のよもやま

創作、妄想、日々のもろもろ

男子厨房に入るべからず 白玉

 山々が、黒い大きな生き物のように蹲って見える。今宵は仲秋のはずだが、まだ青灰色の空に月の姿は見えないでいる。風はもう夏の熱気を失い、開け放った車の窓からはざんざんと風が入り込み、伸びすぎた私の髪を散々にかき回す。浮かれた季節も仕事に追われ、結局は散髪に行くことも出来なかった。目指しているのは、私の勤める出版社が出す、タウン誌の表紙をお願いしている画家の、向坂さんの家だ。

 眠る獣のように静まっている山の懐に、向坂さんは一人でいて、今日はうかがいますから、と連絡を入れると、何故かお使いの品を沢山言いつかってしまい、私の車の後部座席は食材で満載だった。

「向坂さん、入りますよ」

 柔らかな橙色の灯の灯る玄関扉を開けながら私はそう声をかける。返事はない。両手にもった買い物袋で雑な音を立てつつ、私が黒光りする床板の上に上がろうとする。と、

「靴!」

 と奥から大きな声がした。向坂さんの声だ。私は慌てて引き返すと、入り口にある鋳鉄の沓摺で丹念に靴の裏をこする。この家は土足でいいのだが、この行為を忘れるとお小言をいただいてしまうのだ。

「ここに置きますよ」

 買い物の品を一枚板で出来た台所のカウンターに置くが、返事がない。気配のする奥の部屋、この山が見渡せるように硝子の大きな嵌め込み窓のある作業場にも姿はなく、そのまた奥の四畳ほどの和室に、向坂さんは正座していた。

今日は珍しく中途半端に伸びている髪を黒のゴム紐できちりと縛り、斜め後ろから覗く横顔は何時もの掴みどころのない穏やかさではなく、ひりりとしたものが眦にある。声をかけようかどうしようか、そんな私の逡巡が伝わったのか、向坂さんは振り返ると、よく日焼けした小さな顔に人懐こい笑顔を浮かべた。その笑顔には何時もの少年未満のような雰囲気はなく、年相応の女性に見えた。そんな感覚を初めて覚えた自分に少し戸惑い、私は目をそらした。四畳いっぱいに広がっているものに視線を向ける。

 銀灰色の空の中、薄い雲を纏う小さく澄み切った白金色の月が浮かんでいる。その月が照らしているのは果てない薄野原で、わずかに人の通った後のように細い道が、まるで月を目指すように伸びている。風に舞う薄は光を纏っているように仄かに浮かび上がる、そんな場所を何処か高い場所から静かに見下ろしている、その視界の端に茅の細い翠の葉がすっと横切り、夜露が一つ月明かりに濡れている、そんな画だった。

 板を渡した作業台の上には、白い皿が何枚も並んでいた。皿の上を、藍色や鈍色が飾っている。乳鉢には丁寧に擂られた胡粉

「露と答えて、とかなかったですかね」

 夜露の寂しい煌めきに私が呟けば、向坂さんは、おおという顔で大げさに驚いてみせる。

「朴念仁が在原業平を語るのか」

 笑った声のまま向坂さんは言う。私はわしわしと髪をかき回した。笑顔をちょっと消し、向坂さんはさっと立上ると、私を追い出すように四畳から出てしまう。画をまだ見ていたかった私だったが、そのまま押し出された。

向坂さんが本当に描きたいのはあんな絵なんだろうか。見慣れた作業場に立てかけてあるイーゼルには、水彩絵の具と色鉛筆で描かれ、青と薄紫、紫紺の色が美しい葛の花が咲いている。しかし、まだ絵は出来上がっていない模様だ。

 

 卓の上に置いたままになっていた食材を、向坂さんが冷蔵庫に運び入れている。手伝いたいが、このお宅の台所の入り口には、「男子厨房に入るべからず」という紙が張り付けてあるので、私は仕様がなく散らかっている紙やパステルを拾い集める。この人は夢中になるとてんで身の回りに構わなくなってしまうのだ。

「これ、外に飾ってくれる」

 ケント紙の束を抱えて私が振り返ると、向坂さんはこの家の中で一番新しい作りの対面式キッチンの向こうで、三方を手にしている。その上には栗や里芋が載せてあった。

「外?」

「縁側に薄を活けてるから、その横に」

 言われるままに玄関から出て西向きの縁側に出てみれば、確かに薄の活けてある花瓶があった。ああそうか、お月見ねと納得しながら、三方を横に飾る。この場所だと、ちょうど良い感じに月が見えるだろう。里芋を飾るというのは初めて見た。

 ひんやりとした夜風に身を震わせると、急いで母屋に戻る。早く絵を仕上げていただきたいものだ、この人は何時もぎりぎりだから。そんな私の思いも知らず、向坂さんは台所で真剣な顔でボウルを抱え何かを捏ねている。

「何を、なさってるんですか」

 私が呆れた調子で言えば、白玉、と単語が返ってくる。白玉? 覗き込めば、白いものを無心に捏ねている。手が疲れたと呟いて、そのボウルを私に押し付ける。

「耳たぶくらいの固さまで捏ねて、で、丸く、火が通りやすいようにちょっとぺったんこにしてください」

 またですか、そう言いたいのを堪えてボウルを受け取る。さり気なく自分の耳たぶを触ってみたら、濡れタオルを突き出されてしまう。粉の固さはもうちょうどよく、なんだか紙粘土の手触りのそれを拳ほどちぎると、言われた通りの形にしてみた。途端、向坂さんは笑い出す。

「大きすぎるって」

 私の手からそれを奪い取ると、ちょうど親指の先ほどの大きさにする。

ヘモグロビンの形」

 真ん中のくぼんだそれを見せて、向坂さんは笑う。ヘモグロビンとか、やめてください、赤血球じゃないですか。もう絵を仕上げる気持ちなど更々ないらしい向坂さんの言うとおり、せっせと白玉を私が丸めていくと、たっぷりのお湯でそれを彼女が茹で始める。火が通ると、白玉はぷかりと浮かび上がってきて、それを掬い上げると氷水にさらす。つるりと光る瑞々しい白玉は綺麗だった。

「あの露は白玉なのって、聞いた人が鬼に食われてしまいました、って歌でしょ、君が言っていたのは」

「そうでしたか?」

 そうなのよと、私の声に向坂さんの声が被る。私が内心首を傾げると、

「本当は姫君を誘拐しようとしてうまくいかなかったんだよね」

 ひそりと呟き、湯に浮かんでくる白玉を向坂さんはお玉で掬い上げている。私はただ白玉を千切っている。

「好いたお方と引き裂かれ、姫君は一門の為に帝に中宮として差し出されたわけです」

「はぁ」

「姫君の心は何処かに置いてきぼり」

 ぼんやり、向坂さんは言い、次にはくるりと表情を明るくし、私の顔を見てただにこりと笑った。

 瑞々しい白玉がバットに並ぶと、ご満悦の向坂さんは小さな声でなんだか古い曲を、確か、黄昏のビギンというタイトルの曲を歌っている。冷蔵庫から取り出されたホウロウのバットには、とろりとした粒餡が詰まっている。それを硝子の器に盛った白玉の上に、たっぷりとのせる。小豆はふっくらとして艶やかだ。私は差し出された木製の盆を受け取りながら、

「懐柔されませんからね、仕上げてくださいよ、明後日が入稿なんですから」

 私の小言も既に聞きなれてしまったのか、向坂さんはにかにかとして自分用と思われる器に山盛りの粒餡をのせる。そんな時、裏口でことりと音がした。先刻、三方を飾りに行った縁側辺りだ。その瞬間、向坂さんは粒餡を掬っていたお玉を抛り出すようにして、勝手口に向かい、勢いよく扉を開けた。

 

 丁度、山際に上ってきた満月の光が、ひたひたと辺りを潤し始めていた。山の頂は銀に染まり、薄の穂は燐光を放ち、揺れていた。里芋が一つ、縁側に転がっていた。私は、向坂さんの顔を何故だかみることが出来ない。

 しばらく彼女は月を眺めるでもなく立ち尽くしていたが、ゆっくりとした動作で転がっていた里芋を拾い上げると、三方にそっと戻した。

「冷えてきたね」

 私に向けた顔は何時もと変わらなかったけれども、もう一度振り返り彼女が眺めた草原は、ただ秋の虫がすだくばかりで、人の通った跡など何処にもなかった。まるで何事もなかったかのように、向坂さんは私にほうじ茶を入れると、自分は諦めたような足取りで作業場のイーゼルの前に向かう。

 そこにも、ひたひたと月の光が満ちていたけれど、硬質な光はそこに立つ人の影を精緻な人形のように見せる。

 向坂さんは、誰かを待っていたんだろうか。

 この沈黙が戸惑いであると悟られぬように、私は白玉を口に運ぶ。滑らかな喉越しに小さく頷き、しっかりと甘い粒餡の小豆を噛みしめる。微かな、黒糖の苦みがした。

 

 秋の終わり、新聞を見ていた編集長が突然に大きな声を出した。

「参ったな、向坂先生の稿料上げないとダメかな」

 編集長はそう言うと、私に紙面を指さして見せた。ある絵画展の入賞作が記されていた。金賞はカラーだったが、編集長が指さすのは銅賞。そこには、私が見たあの絵が白黒で収まっていた。「向坂 春(あずま)」と確かに。

「あげて差し上げてください」

 原稿の校正に戻りながら私が呟けば、編集長は淋しい頭頂部を自分の手で叩いている。

「その絵のお題は、何ですか?」

 私が訪ねれば、白玉、と編集長の答え。

 あの日見た月と、艶やかな白玉を思い出す。あれは、私が食べてもよかったのだろうか。

 ふと、そう思った。