菅野樹のよもやま

創作、妄想、日々のもろもろ

すべてのものに幸いあれと願う

 遠い山の中から出てきた青年は、灰色の空の下にいた。乾ききった風中には、昔に突き刺したような棒杭。真っ直ぐ西へ向かう道に、バスは走っているはずだ。足元に絡みつく冷たい風を、僅かな荷物が入った小さな背嚢で防ぐ。凍えた体を己の両手で抱き寄せて、青年は果てを見つめる。やがて、黒い芥子粒のような小さな点が現れる。それは年季が入り塗装も落ちてしまった、錆色のバスだった。
 軋んだ音をたて、バスは止まる。古いドアだ。運転席の小さな三角の硝子窓が開き、薄い頭髪の上にバス会社の制帽をぞんざいにのせた、ゆで卵のようなおやじが顔を出した。「若造、すまないなぁ。ドアは手動なんだ」とがらがらした声でおやじが言う。折り戸を、押せばぎちぃと音を立て扉は開き、埃っぽい木床のタールの匂いとおやじの体にしみついた煙草とガソリンの匂いがした。小さな咳をして青年が行先を告げれば、「終点だ。料金は降りるときに入れるようになってる」、おやじはそう答え、無精ひげに包まれた顎を、つるりと大きな手で撫でた。顔の前で揺れる、ルームミラーから下がるロザリオに、運転手は小さく十字を切る。年季の入った十字架は、黒光りしている。青年はそれから目を逸らすようにすると、顔を伏せた。

 「この先はちょいと危険地帯でな、まぁ神頼みだ」

  運転手は照れくさそうにそう言い訳をしたが、青年は答えなかった。

 乗客は、誰もいないように思われた。一番奥の席にと思ったが、人の側にいたいような気がして、青年は運転席の二つ後ろの二人掛けの席を取る。がすがすと疲れた音をたて、バスが動き始める。運転手は日に焼けた顔の中にある愛嬌のある目で、青年をちらりと見る。青年は痩せっぽちで背ばかり高く、尖った顎の小さな顔の中には、高い鼻梁と大きな夢見がちな瞳がある。その瞳の色は、随分昔の青空のような色だった。座席のバネが尻にあたり、小石を跳ね飛ばすたびに響く。運転手はまっすぐに、灰色の空を見ながらハンドルを握っている。「若造」と運転手が呼びかけた。
「ラジー」
「なんだって?」
「ラジー、俺の名前」
 不機嫌な青年、ラジーの声に、運転手はがらがらと笑い声をたてた。バス中に響くほどの大きな声だが、気持ちよさそうだった。
「あぁ、すまんね。俺はマルコだ。ラジーとやら、君は、あの町になんのようかね」
 マルコと名乗った運転手は言う。あの町、とはきっと終点の町のことだろう。石造りの大きくて立派な町だと聞いた。行く理由は一つしかない。仕事を得るためだ。その時、軽やかな音が床を踏む音がした。悪路を走る音の中でも、それははっきりと聞こえ、思わず、ラジーは振り返った。無人だと思っていた奥の暗がりから、女が歩み寄ってきたのだ。
 華奢な踵の尖った靴を履き、膝元で軽やかに揺れる柔らかな黒いスカートに、胸元がドレープで美しく飾られた白いブラウスを着ていた。小鹿のように細い首の上には、可憐な造作の顔があり、肩にかかる黒髪。この辺りでは珍しい、東洋の女だった。「近くに座ってもよいかしら」と声は落ち着いて、心地よく低い。運転手はルームミラーの中の顔を嬉しそうに笑いの形にし、目尻を下げた。
「御嬢さん、近くによってくれてうれしいよ。あぁ、なんだかいい香りがするなぁ。なぁ、ラジー」
 なれなれしくマルコが言う。ラジーはこんな華やかな女にあったことがない。女は彼の返事を待たず、運転手のすぐ後ろ、彼の左前の席に腰かけた。動作は軽やかで空気が動き、タールとヤニの匂いが籠ったこの空間に、ふうわりと一瞬花の香りを漂わせた。
「御嬢さんは嬉しいけれど。嫌味に感じるお年頃なの」
「それは失礼、マダム」
 マルコは嬉しそうだ。顎が首に埋もれた丸い横顔を見ながら、この悪路を外れないで運転に専念してもらいたいと、ラジーは思った。そんな彼を、振り返った女が見つめた。切れ長の美しい瞳には笑うような色があったが彼女は何も言わず、やがてゆっくりと外を見た。
 枯れ果てた景色には、土色の大地と灰色の空しかなく、時折、灌木が視界の中を掠めていく。雨は、何時降っただろうか。乾ききった大地の罅が、傷口のようだった。
「山の向こうから来たのよ」
 ゆっくりと彼を振り返り女が言い、瞳を優しく笑いの形に細めた。ラジーは些かどぎまぎとして視線を逸らす。
「マダム、貴女の行先もあの町だったね」
 マルコが言えば、その席の背に身を預けるように、彼女は寄りかかる。
「主人が亡くなったから。国に帰るの。よかったら、リンって呼んで」
 そう名乗った彼女は、リンは、ラジーを見た。二人の視線が絡まったとき、運転席の天井からぶら下がっている無線が、がぁぴとけたたましく喚いた。

  こいつが啼くとろくなことがない、マルコは毒づきながら、無線をむしり取る。早口の会話が繰り返される。無線からは壊れかけた言葉が飛び出してくる。マルコは緩んでいた顔を引き締め、無線を切った。太い腕でぐんと重そうなハンドルを回す。バスも速度を上げて、古い石畳の道へと猛烈な勢いで乗り込んでいく。座席から放り出されまいと必至にしがみついているリンは、声音だけは驚くほどに落ち着いて、何があったの? そう尋ねた。

 「先の橋、空襲で壊れちまったらしい」

  マルコは言う。この国は今、宗教の違う者同士で争っている。ラジーが怯えた表情を浮かべたのかもしれない、彼の顔をちらりと横目で見たマルコは、無精髭に覆われた顔に、不敵な色を浮かた。

 「なに、ちょいと一休みをしておけということだ」

  陽気な声で言いながらも、彼の足はアクセルを踏み込み、古い道の先にある小さな町へとバスを突き進めるのだった。

   遺跡のように古びた町。肋が浮くほどに痩せた犬が一匹、舌を垂らして歩いている。マルコがバスを止めたのは、二階家の宿屋か食堂か。手伝えと、マルコはギアを引き、体形からは想像もつかないほどに機敏に座席から飛び出す。転ぶような勢いでラジーは立ち上がり外に出る。マルコは、砂色の大きなシートを取り出して、彼に押し付けバスの後ろの梯子を指差した。持って昇れと理由を聞くことも許されないような勢いで言われ、ラジーはシートを引き上げる。シートは戦闘機からバスを隠すためらしい。

 「今日はもう動けない」

  梯子を下りてきたラジーに、マルコは言った。彼らは空を思わず見上げる。灰色の雲はまだ視界を覆っていた。

 「ようこそ、お客人」

  店には老人がいた。撫でつけた白髪は薄く、痩せて皺に飾られた顔は、干し棗のようだった。

 「ジャコモ爺さん、空襲警報は出たかい」

  マルコはそう声をかける。老人は首を横に振り、カウンターを指差した。端には既にリンが腰かけていた。

 「ここは忘れられた町だ」

 「俺は忘れていないが」

 「空襲警報は出ない、出ても、逃げる場所はない。何にするかね、何もないがね」

  爺さんは笑った。歯のかけた口ががらんどうに見えて、骸骨のようだ。新酒の季節はすぎたなぁとマルコが言う。爺さんはにやりとし、何もないと言ったくせに、赤ワインを出してきた。最後の一本らしい。マルコがポケットを探ろうとすると、小さく首を横に振った。爺さんは何も言わず、四つのグラスに真紅の液体を注いでいく。

 「祝祭が近いというのに、何もない」

  爺さんは呟く。マルコが店の壁のすすけたカレンダーに目をやれば、生誕祭まで後わずか。リンは美しい指でグラスの細い足を摘む。薄汚れたこの場所で、硝子の優美なグラスだけは一点の曇りもなかった。マルコはそれに敬意を払うように掲げ、軽やかな葡萄の香りのする液体をゆっくりと口にしようとする。だがしかし、ラジーだけは動かなかった。

 飲まないのかとマルコが彼に声をかける。ラジーは、自分を見つめる三人を見た。飲めないのかと、楽しそうにマルコが言い、彼のグラスに手を伸ばす。ラジーは黙ってグラスを手渡し、言った。

 「酒は飲めない。あんた達の町を焼き、祝祭の食べ物を奪うのは、俺と同じ神を信じている奴らだ」

  ラジーは僅かに震える声で言った。ここで殺されても仕方がないと思った。気のいい運転手の顔も、爺さんの顔も見ることが出来ず、ラジーはリンを見た。リンは、唇の端を僅かに吊り上げ、小さく笑った。

 「私には判らない、たった一つの神を信じるなんて」

  彼女の言葉に、爺さんは息が抜けたような笑いを零した。

 「御嬢さんは、何を信じているのかね」

  爺さんの問いにリンはすこぶる真面目な顔をし、お金、と短く答えた。マルコは制帽を取り、両手の間で揉みつぶすようにしていた。ラジーの横顔を見つめた後、いつの間にか身を引きかけていた自分を恥じるように、一歩踏みよった。爺さんは、古びた薬缶を火にかけると、濃く良い香りを放つ珈琲を煎れはじめた。それからカウンターの上に、少し硬くなったパンやチーズを並べ始める。僅かなワインと粗末な食事。自分の為に用意されたコーヒー。それは特別なものにラジーには思えた。

 「何もなかったんじゃないのか」

 「マルコよ、お前の腹は膨れすぎだ」

  軽口を言い合う二人。ラジーは戸惑い、カウンターの上で固く組み合わせた己の両手を見つめる。爺さんはそんな彼に、穏やかに言った。

 「さぁ、食べようか」

  マルコがラジーの肩にそっと手を置き、息子に語りかけるように言った。

 「俺はお前さんを、ちゃんと町まで届けるよ」

 「私は神なんて信じない。人を救うのは、人なのよ」

  リンは厳かにそう呟き、自分だけ先にグラスを手に取り、柘榴色の液体を口にする。爺さんは薄く笑った。

 「全てのものに幸いあれ。年寄りの願いはそれだけだよ」

  そう言った爺さんの声は、微かに悲しみの滲んだ錆びた色だった。ラジーの遠い昔の青空のような瞳から、一粒の涙がこぼれる。マルコはその背をぽんと、優しく叩いてみせたのだった。

 

 

 fin