菅野樹のよもやま

創作、妄想、日々のもろもろ

Extra オールド・シティ サード

 昼間、ランチの客がひと段落するのは、三時近く。最近、有難いのか迷惑なんだか、ネットで、この古い町にある、名前のない喫茶店を紹介してくれるお客がいて、そこそこに、僕は忙しい。店主である祖父に尋ねたところ、開店当初は名前があったらしいが、いまや、忘れた、ということである。おめでたい。

 祖父は、近所の額縁屋のおやじの家に出かけた。アルバイトの一人でも雇いたい身の上の僕だが、まぁ、祖父の目の黒いうちは無理だろう。

 洗い物を片付け、ほっと一息。自分の食事は、ベーグルにチーズとブルーベリージャムを挟んだもので済ませる。客のいなくなった店の、窓辺に近い席でふっと息を吐く。見計らったように、郵便屋さんがやってきて、手紙や封書を置いていった。ダイレクトメール、ダイレクトメール、ダイレクトメール。全部、ゴミ箱行きだ。そう、思っていた、僕の手が止まった。

 

 女文字の、葉書が一枚。僕宛だ。その差出人に、僕は覚えがなかった。しかし、あまりに美しすぎる文字は、淡々と、僕の、一番大切な友人の、死を、伝えていた。いや、友人だと思っていたのは、僕の思い込みだったのかもしれない。

 

 空っぽの頭で、僕は何度もその葉書を読み返す。だが、何も頭に残らない。あいつが死んだ? キリオという、変な呼び名。物堅そうな顔つきでいて、その瞳は何時も悪童のように輝いていた。

くも膜下出血にて……」

 青臭い季節を、一緒に、形のないものを追いかけていた。

「嘘だろう」

 僕は一人、呟いていた。

 

 葉書を片手に、僕は町を見ていた、石造りの古い町だ。時が止まったような町だ。

 僕にだって、生まれ育ったこの町を出て、何かやりたいという思いがなかったわけではない。ただ、僕には、祖父譲りの、祖母譲りの、美味しい珈琲や料理を作る才能はあったんだろうけれども、人を酔わせるような音楽を奏でる才はなかった。キリオには、それがあったはずだった。高校時代の終わり、若気の至りでギターとピアノのデュオを組み、ライブハウスを回った。それは五年ほど続き、声がかかったのはキリオで、僕ではなかった。

硝子戸を閉め、「CLOSE」の札を掛ける。左手に握ったままの葉書をもう一度見る。

 

――よう。

そんな声が、した。ゆっくりと振り返れば、カウンターの端、丁度ぼんやりと薄暗くなっている場所に、奴が座っていた。キリオだ。僕が最後に彼とあった時のままの、格好であり、年齢だった。足は、あるじゃないか。

僕は黙って歩み寄り、ただにこにこと笑っている奴の前に、葉書を放り出す。

「こういう挨拶は、いただけない」

僕が言えば、奴は、キリオは薄く笑った。足はあるが、姿自身は薄い。後ろのカウンター、酒棚も透けて見える。

――人生は予定外。そうだろう? 俺の奥さんも動揺しちまって、四十九日前に葉書出してくれてよかったぜ。

「葉書にのってきたのか」

――まぁ、そういうところだ。

「ずぼらな奴だな。そういう存在なら、すぐに俺の所に来いよ」

 つい、俺、と言ってしまった。キリオと話すときは、何時も、俺、だった。

キリオは、嬉しそうに笑ったままでいる。よく、笑っていられる。じゃぁ、また明日な。俺にそう言った次の日には、町を離れていった奴なのに。

――この店、継いだのか?

「予定は未定だ。じいさんはまだ、元気だ」

――大学に入りたての頃、盗み酒やったらぶん殴られたな。お前と。

「酒は自分の金で飲めってね。くだらんな、そんな昔話をしに、俺の所に来たのか」

 俺が言うと、キリオは照れくさそうに頭を掻いた。

――ずっと、連絡しなくて、悪かった。

「お互いだ」

――俺だけ、有名になろうとして、悪かった。

「才能の違いってやつだ」

――怒っていないのか。

 キリオが、俺を見上げてくる。二十代の前半というのは、こんな切ない顔をするんだろうか。俺も、そんな目をしていたんだろうか。もう年を取らないキリオの前で、俺は分別のあるような、余裕かました表情で、いるんだろうか?

「怒っているとすれば、俺に黙っていたことだ。俺は、祝福したと思うぜ」

――違うぜ、サード。お前は年を重ねたから、そんな気持ちになってるだけだ

「そうかな」

――そうだ。

 俺はちょっと考えてみた。そうして、唇の片端を曲げた。

「そうかもな。お前のCD、俺、買わなかったから」

 キリオが笑った。俺も笑う。過ぎ去った歳月を、笑いあう。キリオの肩を叩けないことが、寂しい。ふと、そう思った。

 

 雷鳴が轟き、空が暗くなる。次にはもう、激しく雨が降り始めていた。会話は途切れ、雨音に包まれる。俺とキリオはただ、黙って雨にけぶる町を見た。

――あの、唄、おぼえてるか

キリオが呟く。昔々に、約束をしたことがあった。よく、二人で演奏して、歌った曲があった。その中のワンフレーズが、気に入ってしょうがなかった。

 俺はカウンターの内側に入ると、数多の酒瓶が並ぶ棚から、一本を引き出した。

 ワイルドターキーの、12年もの。封は、切っていない。こんなものを用意していた俺は、やっぱり、キリオの帰還を待っていたのかもしれない。キリオは帰ってきた。この世のものでなくなってしまったが、確かに今、目の前にいてくれる。

「三十は、とうに過ぎた」

 俺が呟けば、キリオはただ、頷いた。いい音がして封が切れ、濃い琥珀がグラスに注がれていく。

――きっと、うまいバーボンだ

 キリオの呟きに、俺はグラスを呷ってみせた。喉の奥まで焼くような強い酒は香り高く、青い空の下で飲みたい酒だった。

「飲まないのか?」

――お前も馬鹿だな、俺はもうあっちの世界に片足突っ込んでんだ。こう、エーテルのようなものを味わっているのだよ。

 したり顔でキリオは言う。そうして、タバコ吸いたいな、とのたまった。引き出しからマルボロを取り出すと、紙マッチを吸って火を点ける。一本を、キリオの前に置いた灰皿にのせてやった。俺も一本、咥える。

――線香よりこっちがいいな

 紫煙の向こうで、キリオが笑った。俺はただにやりというふうに笑って見せて、グラスに残ったバーボンを空ける。

――雨があがるぞ

 キリオの言葉通り、雨が薄くなり、世界が明るくなり始めていた。そうか、約束を果たしに、わざわざよってくれたのか。俺はキリオの顔を見詰めた。

「何時か逝くから、その時は迎えに出て来い」

――横着者

 なじるような言い方が、懐かしかった。ふいと彼の若やいだ顔から目を逸らし、煙がしみたような振りをして目をこすった。そのとき、まるで囁くような声で、キリオが言った。

――虹が、出るぞ

 俺が目を向ければ、ただ、バーボンの入ったグラスと、火の付いたマルボロが灰皿の上で燻っているだけだった。

 

 戸を開ければ、雨の名残の風が店に吹き込み、抜けていく。洗われた空は底抜けに、青すぎた。

 そうして、町の彼方向こうの空には、確かに、虹が渡っていた。カウンターに入ると、古ぼけたCDを取り出し、曲をかけた。リプレイにして、何度も、何度も聞けるようにした。奴の残したバーボンのグラスを片手に持つ。

 店の軒から僕は空を見上げると、一気にグラスを開けた。もう、今日は、閉店にしちまおう。そうして、くすりと、笑った。

 お前と一緒なら、きっと、もっと、うまかったと思う。

 

fin