風琴堂覚書 外伝 金青
寺町は、いつもよりも深閑としていた。夜のうちに雪が降ったらしく、古い街は今年最初の雪景色になっていた。楠並木も、今日は暗い緑になっている。
俺の務める骨董屋、風琴堂もそんな景色に溶け込んでいた。蔵を改造した店には、古い牧ストーブが一つあるだけで、とても部屋を暖めてはくれない。普段は持ち込まれた品を扱う作業机の下に、手あぶりの火鉢を一つ置いて暖をとっている。
店の奥からは、ギターの音が流れて来ていた。「聖母マリア頌歌集」。寒い店での番を俺におしつけて、店主であり大叔母でもある御室が、レコードをかけているらしい。そうか、もうすぐクリスマスか。そう呟いてみたが、あまり関係のないことなので、作業に戻ることにする。
馴染みの日本画家が数日前に持ち込んできたのは、ラピスラズリ。小さな布袋にぎっしりつまっていた。最初は絵具にするために手に入れたらしいが、どうにもそのラピスラズリを手に入れてから体調が良くないという。そういうことで、絵具にするのは諦めて、数珠にでもしようかと思ったらしい。
実を言うと、骨董だけでは飯が食えないので、時折そんな依頼を受けたりもする。御室は嫌うが、このご時世しようがないと、俺は思うわけだ。
布張りの箱の上に、袋から出したラピスラズリを並べていく。この袋を預かった時、何故だかすぐには触りたくなかった。画家が袋を持ち込んだあの時、御室は何時も掛けている奇妙な眼鏡、左側にだけ濃い色硝子の嵌った、それをはずして、ほうと呟いたのを、俺は見逃さなかった。
彼女の左目は、時に色んなものを見る。未来だったり、もうこの世にはないものだったり。一つずつ、ピンセットで石を大きさ別に分けながら、俺は小さく息を吐く。左手が、皮手袋に包んだ左手が疼いている。昔の火傷のせいだけではなく、そう、きっとここに転がる石の中に、何かあるのだ。ピンセットを手にしたまま暫く机に肘を着いて俺は悩んでいた。
俺の左手は、物に籠った「過去」を見る。さて、どうする。
御室は、何を見たんだろうか? 左手の手袋を外すのに、そう、時間はかからなかった。
深く濃い黒の先に、真っ白な毛足の長い猫が走っていく。ペルシャ猫だ。猫は、俺の気配に気づいたのかつと立ち止まった。
――貴方は何をしているのですか?
猫は俺にそう声をかけてくる。金と青の瞳を持った、優美な猫だ。やぁ俺の姿が見えるのかと、そう思うと猫は優美な尻尾をふぁさりと動かした。
猫はそう言うが、俺にはそう、まるで遠眼鏡で世界を覗いているようにしか世界が見えないでいる。
暗い闇の先に、ぽかりと光が開け、其処にはタイルと緑で美しく装飾された中庭が見えるのだ。
(此処はどこかな?)
俺が呟くと、猫はきちりと座り直し、遠い昔に大陸にあった国の名を口にした。異国に飛んできたのは初めてだが、思えばラピスラズリという石は遥か西の果てにある国が産地だった。
――貴方様から、我が主人の匂いがいたします。
猫は金と青の瞳をくるくるさせ、鴇色の鼻を蠢かせる。俺の左手は、過去の欠片を掴んだようだ。
(君のご主人とは、王様かな?)
立派な中庭を遠くに見ながら俺が再び問いかければ、ペルシャ猫はにゃあーんと一声鳴いたのだった。
ご覧くださいませ、美しい中庭でありましょう? 主上が異国生まれの我が主人の為に、お作りになったものでございます。主人の国は、この地よりもはるか先、太陽が沈む先にあったそうですが……。
主人の国を滅ぼしたのは、主上でございます。そうして、主人の夫であったその国の王を殺してしまわれたのも、主上でございます。まだ私が生まれる前で、後宮に献上される前の話ですので、よくは存じませんが、主上は主人のあまりのお美しさに殺すことをお止めになられ、ご自身の後宮に収められたとか。
私はこの美しい姿故に、主人への貢物として差し出されました。由緒正しい血筋でございます。主人は頑ななお方であります。そう、お考えくださいませ、夫を殺した男の、失礼、主上の後宮。心を開けという方が無理でございます。
主人はこの国の言葉を覚えず、そうして風習も受け付けられませんでした。いつでも太陽が沈む方向を見つめ、この国の女達のように髪を奇妙な形に結い上げたりです、金色の長い髪をお背中にたらし、数多い主上からの贈り物から有何時、私のみを抱き上げ可愛がってくださいました。私は主人をお慰めするために何時もぐるぐると歌を歌っておりました。
主人と一緒に、幾月の太陽と月を見送ったでしょうか。その間も、主上の贈り物は途絶えることがありませんでした。
白い子馬、沢山の宝石、絹織物。主人の為のお館がそんな輝かしいもので埋まっていきました。主上は時折お越しになり、主人にお声を掛けようとなさるのです。けれども、何時も窓辺に凭れ、空と同じ青く澄んだ瞳で遠くを見つめる主人をご覧になると、悲しそうなお顔でお帰りになるのでした。
そうして、あの日が来たのです。そう、主上が主人に最初で最後のお言葉を掛けられた日が。
――私の名前をご存じではありませんか?
金青の瞳がくるくると、俺に問いかけてくる。
あの日、天の木星が南の夕空に上がる時間でございました。緩やかな黄色の絹の衣をお召しになった主上が、我が主の元にお越しになったのです。後ろに手を組み、ゆっくりと歩み寄りながら、たどたどしい主の国の言葉で、ええ、私は猫でございますのでお心さえいただければいかな国の言葉とてわかるのでございますが、主上は主の国と同じ言葉を話します隊商の人をお召しになり言葉を学ばれたそうなのです。
――妃には何を贈れば気に入ってくれようか?
主上は部屋を埋め尽くす絹の衣を眺め呟かれました。主の肩が僅かに動くのを、私は眠ったふりをして感じておりました。主はすぐには答えません、主上は水盤の上に盛られた数多の宝石を掬い上げながら、返事を待っておられました。
――私が賜りたいものは、
主は石膏でできたような白い顔、その頬を僅かに薔薇色に染め、小さく美しい声で呟きました。驚いたことにその言葉は、主上の国の言葉でありました。主上は初めてお耳にされました主の声に、僅かに微笑を浮かべておいででありました。しかし、そのお顔はすぐに、暗く沈んでしまわれたのです。
――私が賜りたいものは、主上、永遠の眠りでございます。
あまりに凛としたお声でありました。しかし、少しも冷たくはなく、不思議な温かさにあふれたお声でありました。
――朕の贈り物が気に入らぬのか? 朕は妃の敵でもある、憎いのか。
主上のお声は淡々としておいででした。その時、主の顔に浮かびました色は、なんと申しましょうか、憐みとも慈しみともつかない、聞き分けのない子の言い分を聞くような、母のようなお顔でありました。
――主上よ、人の気持ちは物では手に入れることは叶いません。私は今やないとはいえ、亡国の王妃であり、我が夫の妻であります。神の名のもと誓い結ばれました。それ故に、主上のものになることは、叶わないのです。
――朕は皇帝である。この世の中心である。妃の信ずる神など朕は知らぬ、朕の思うようにせよ、従え。
主上は切れ長の美しい瞳に、恐らくお生まれになって初めての悲しみの色を浮かべ、主をも見つめております。しかし主は首を横に振るだけでありました。
――主上のお気持ちを時に心地よく思う己が、許せないのです。主上を慕う気持ちが時に芽生えるの己が、許せないのです。主上のお顔を思い浮かべながら、いまだ、我が夫の顔を思い出します。そうして、主上が我がもとに通われる度に、他の妃方のお嘆きが聞こえてまいります。主上、主上はあの時、この私の命をお奪いにならなければなりませんでした。
わからぬ、主上は確かに小さなお声でそう呟きになられました。しかし、主上、御自らの願いをお断りあそばされた主には、もう生きていくことは叶いませぬ。すぐに、主の元に、小さな素焼きの壺が届けられました。主上は暫く掌の上でその壺を弄んでおいででした。主は嬉しげに、白い腕(かいな)を伸ばしました。
――主上、最後に一つお願いがございます。この子をどうぞ、私の代わりにご寵愛くださいませ。
私は主の腕に抱かれ、そっと主上に手渡されました。ぎこちない手つきで主上は私を抱き上げながら、私の首輪にお気づきになりました。それは、主上がお送りになられました数多の高価な宝石の中から、たった一つ主がお選びになった金青石を金の鎖に通した首輪でございます。主上はその時、主のお気持ちにお気づきになったのかもしれません。
そう、主は主上にお心を傾けてしまわれたのです。しかし、亡き夫君をどうしてもお忘れになることが出来ないでいらっしゃいました。
――主上、我が死をもって、我が思いを知り賜え。
そのお言葉が、私が最後に耳にした主のものでございました。主は白い喉を仰のかせ、壺を一気に傾け何かを飲み下してしまいました。
主上は微動だにせず、その光景を見つめておいででした。やがて、主が柳眉を僅かに苦しげにお寄せになりましたが、ゆっくりと、お倒れになりました。
主上の元で私は暮らし始めましたが、我が主がどうしても忘れられません。あれほどに可愛がってくださいましたのに、何処にいかれてしまったのでしょう?
私は毎日、人気のなくなった主の館に通いました。豪華なものは何一つなくなり、変わらないものは水をたたえた中庭の池だけでございました。館の中、泣きながら主を探しましたが、ある時疲れて泉の側の池を覗き込みました。湧き出る水に喉をうるおしたのち、その水面が懐かしい主の瞳と同じ色を湛えているのに気付いたのでございます。
その先に、主はいて私をお待ちなのかもしれない。そう思った私は、ぽんと、その泉に身を投げたのでございます。
――私はもうどれほどの時間、ここにいるのでございましょう? 我が主人はいずこでございましょう? 私の名前、私の名前をご存じありませんか? もうすっかりと忘れてしまったのであります。
何時しか中庭の景色は消えて、俺は白い猫とむきあっていた。金青の石を力を込めて握りしめれば、俺の頭蓋の内側にうっすらと貴婦人の姿が浮かんでくる。その人の微かな声が、愛おしそうに名を呟いていた。俺は右手を伸ばし、優美な白い猫の頭をそっと撫でると、その耳元に屈みこみ、呟いた。おそらく、その美しい猫の名であったろう美しい言葉を。
やがて、猫の身がぶるりと震え尻尾が膨らむ。そうして、にゃーんにゃーんと立て続けになくと、身を翻しずっと暗い、暗い闇の果てに駆けて行ったのだった。
「風邪ひくぞ」
野太い声が頭の上から降ってきて、俺は顔を上げた。左手にオーバル型のラピスラズリを握りしめ、何時しか俺は眠っていたらしい。肩にはでかいダウンジャケットが掛けてあった。俺の前に立っていたのは、この店のお抱え弁護士、嶽だった。長身の巨漢でとても弁護士には見えない。
「何しに来たの」
俺が言えば、嶽は旧市街にある店から買ってきた、ロストチキンやパイの入った袋の中身を見せた。
「御室さんもお前も、世間の行事に疎いからな。付き合ってやるよ」
「付き合ってくれる人が、お前にいないんだろう」
俺が言い返しても知らん顔の嶽は、やがて作業机の上にあるラピスラズリに気が付いた。
「それ、どうする?」
「こっちは」
粒のそろった石を袋に戻しながら、数珠にすると俺は答えた。嶽はもう一つ、オーバル型の石を指差す。これだけは、これだけは特別だろう。
よく見れば、穴が穿ってある。これに、そう金鎖を通そう。俺が買い取ってもいい。
何時しかレコードは終わっていた。あの不思議な、どこか物悲しい曲の為に、不思議なものを見たのかもしれない。
「嶽かい?」
店の奥から御室の声がする。嶽は返事をしながら、食糧の入った紙袋を抱え上げた。
「食い物、持ってきました」
そう言いながら、店奥に消えて行った。
俺はダウンジャケットを肩にかけたまま、主が使う李朝時代の黒檀の机の後ろにある、書架の前にたった。その中から分厚い世界史の本を引き出した。
金色の髪の、あの美しい貴婦人の名前を知りたいと思った。けれども、歴史の本の何処にもその名を見つけることが出来なかった。
きっと、そんな貴婦人は沢山いたに違いない。俺はもう一冊、鉱物の本を取り出した。そうして、店の帳簿でもある革表紙の分厚い帳簿も引き出す。
あの画家から、石を買い取ったら、帳簿に、風琴堂覚書に名を加えよう。あの美しい白い猫の名前をつけて。
あの猫の名は、ラズワルド。天の青、そんな意味らしい。
外を見ると、また雪が降り始めていた。御室がまた、イスラムの匂いのする古いギターの曲をかけている。この雪は積もるに違いない。
「七海、店を閉めておいで。クリスマス、とやらを祝おうじゃないか」
御室のそんな声がする。俺は小さく笑みを浮かべると、小さな木箱に一粒のラピスラズリを収めた。
……主上は、妃の愛を知ったのだろうか?
もう、それを知ることはできなかった。
了。