菅野樹のよもやま

創作、妄想、日々のもろもろ

路地裏の公爵

 色彩溢れる繁華な街を抜けると、小さな橋があり、それを渡れば灰色の古い町がある。とある古い店は、洋酒と洋モクしか売っていない奇妙な所で、店番は年中、白髪の長髪をバンダナで巻いたインディアンみたいな婆さん。そこに入るには、前に端整に座るジャーマンシェパードの横を通らなくてはならない。

彼の名前は、デューク。紳士的振る舞いと威厳とで路地裏の公爵なんていう人もいるが、彼には関係ない。彼は待っている。もう随分前、この店にご主人のお供をしてやって来た時、ご主人は黒服の一団に連れ去られてしまった。

 ――ちょっと留守にするから。と、ご主人は黒服の一団に飛びかかろうとした彼を宥め、そう言った。

 噂ではご主人は悪い人で、連れて行ったのは警察らしいけれども、デュークには優しい言葉と手と温かい抱擁をくれた。だから、デュークは待っている。

「クマだよ、ママ」

 声がして、誰かが昼寝をしていた彼の耳を引っ張る。片目を開けた彼が見たのは、鼻をたらした男の子だった。母親らしき若い女は彼をどうよけて店に入ろうかとしていた。

「犬、よ。ほんと、バカなんだから」

 その言葉にデュークはのそりと起き上がり、母親を見上げた。一瞬、怯えて、女は子供を抱き寄せようとする。それを中から見ていた婆さんが、声を掛けた。

「デュークは何もしないよ、これ、商売の邪魔をしないでおくれ」

 デュークはまたゆたりと寝そべる。子供は大きな彼が珍しいのか、まとわりついている。耳をいじったり(彼の大きな耳は小さい頃は垂れ耳だったのでご主人がセロテープで”整形”した)、尻尾を引っ張ってみたり。けれども若い母親は落ち着かない顔で、店の中をうろうろしている。

「これから、ショーパブのオーディションなんです」

 煙草を求める女の手は微かに震えている。婆さんはにかりと笑い返した。

「デュークに吠えられなかったからいいことがあるよ。子供は彼が預かってくれる」

 婆さんの言葉に、デュークは耳をぱたりと動かした。強張っていた女の頬が柔らかく緩み、息子の頭を優しく撫でた。

「ママ、がんばってくる。帰りにハンバーグ食べようね」

 母親はデュークごと、ぎゅうとその子を抱きしめて言った。辺りに、青草みたいな匂いがした。それから、口元を引き結び、ネオンの渦巻く街の中に真っ直ぐに進んでいく。デュークは優美な首をすっくりと、彼女を見つめるようにもたげた。婆さんには、デュークの漆黒の瞳がその背中を優しく見詰めているように思えた。

 冷たい川風に男の子はデュークにかじりつく。彼の巡回の時間だが、今日は無理だ。男の子は黄色のリュックからメロンパンを出し、食べる? と彼に聞くが、デュークは動かない。

 パンを頬張る男の子の横を坊主頭の大男が通り抜ける。デュークは顔馴染なのか、いかつい顔を見上げただけだ。

「婆さん、ガキが一人でいるぞ」

 男は言いながら棚から青い瓶ボンベイ・サファイアを一本引き抜く。そうして、台の上に紙包みと封筒を置いた。

「奴から。デュークの餌代と、毛布」

 男が言うと、婆さんは気にしなくていいのに、と呟く。それから、何時出れそうなのと聞いた。

「わからんよ、裁判もまだだ。俺もなるだけ、仕事をするさ」

 男は答え、手の上で弁護士記章を転がす。それを無造作にジーンズのポケットに仕舞い、デュークにしがみ付いている男の子を指差した。

「で、なんでこんなとこにガキはいるんだ」

 坊主頭の大男に指差され、男の子は少し怖くなったのかデュークにますますしがみつく。濡れた鼻先をその小さなに押し付けた時、ぱっと、先刻の若い女が店に飛び込んでくる。化粧が舞台用のままで髪にはカサブランカの花が一輪。

「合格しました!」

 彼女は細い体をしなやかに反らせ息子を抱き上げる。婆さんは頷いて、親指を立てた。

「なんだ、踊り子か? どこの店だ」

 苦み走った声で男が聞くと、彼女はクレアという店の名を告げる。男はにやりと笑い

「あの店なら大丈夫だ。あそこのママ、信用できる男だからな」

 それだけ言い、酒瓶を片手に店を出て行こうとする。その時、男の子が落としたメロンパンに視線を移した。

「大変だろうが、一日に一度は温かい物をガキと食え」

 そうして、店から出て行った。一瞬言葉の意味を考えるように母親が首を傾げると、婆さんは大笑いする。そうして、

「心配しなくいい、あんたは大丈夫だよ」

 まるで自分の孫に話すように、優しく言った。

 男の子は母親の髪を飾っていた花を引き抜いてデュークに渡す。しかし、彼には匂いが強いのかくしゃみをした。母親は落ちていたメロンパンを拾って袋にしまうと、

「ハンバーグ食べに行きます」

 そう言って、男の子に微笑んでみせる。男の子は嬉しそうに飛び跳ねた。おばさんも一緒に、と誘われたが婆さんは、

「稼ぎ時なんだよ」

 と笑って断った。

 去っていく二人を見送る時、デュークはふぁさりと尾を振った。それから婆さんが敷いてくれた毛布の匂いを、子犬のように嗅ぐ。

 懐かしいご主人の匂いをたっぷり吸い込み、優美な動作でその上にきちりと前足を揃えて横になった。カサブランカの花の香にもう一度くしゃみをすると、デュークはゆっくりと目を閉じた。

fin