お江戸小噺 雨宿り
下町の紫陽花がそろそろ花を開こうとしている。
江戸の町にも、梅雨前のどんよりとした雲が広がり始めていた。
繁華な町でも、雨が降れば泥まみれになってしまうのが、難儀な点だった。
「お前さんに頼んでおくと、間違いないねぇ」
日本橋の、薬種屋太田屋の主人が真っ白な美しい壁の前で、溜息をついた。
仕事をやった、左官職人の卯吉は、にこりともせず、頭を下げる。年の頃は三十ばか
火事の多い江戸で、大工と左官は人気の商売だ。卯吉は若いが腕がいいと、贔屓が多
「お代は手代に届けさせますからね。ところで、卯吉さん、先日の手前の件は」
主人が言うと、卯吉は手拭で首筋を拭い、俯いた。
主人の遠縁で、深川の材木屋に三人、娘がいて、末の娘を、物堅い性質(タチ)の卯吉
卯吉は困ったようにちょっと、空を見上げた。
「旦那さん、申し訳ない、あともう一軒、ありやすんで」
卯吉は日には焼けているが、綺麗な顔にくしゃりと笑いを浮かべると、道具箱を抱え
もう一軒の仕事、とは嘘である。
大工と左官は人気の仕事で、見入りもいい。
噂に聞いた娘は、小町で評判だが、卯吉はいま一つ、気が乗らない。
小さなお店(たな)とはいえ、外出(そとで)するのに、女中がついてくるような家
もうすぐ梅雨も近い。とりあえず、仕事が片付いてよかった。暫く太田屋に寄らなけ
そんなことを、考えながら歩いている卯吉の上に、やがて、ぽつぽつと雨が落ち始め
「おっと、ご勘弁」
卯吉は呟くと、近くの軒下に駆け込んだ。
梅雨走りの雨が、ざぁと町を包む。空を見上げていた卯吉の耳に、三味の音が聞こえ
あぁ、そういえばお幸(サチ)の家だった。
卯吉はそう思いながら、連子窓から中を覗くと、手習いと三味線を教えて食っている
お幸は幼馴染だ。
小間物屋の娘で、十五で嫁に行ったが、出戻っていた。
名前とは反対に、色々あった女だ。
卯吉は、気軽に声を掛けようと思い、連子窓に顔を寄せた。
と、お幸が小さく謡っていた。
「砧」だ。
卯吉は歌舞伎なんぞ観に行ったこともないが、まだ嫁入り前のお幸が、その中の謡曲
淋しい、歌だ。
帰ってこない夫の為に、衣を打ちながら嘆く女の歌だ。
卯吉はむすりと黙り込み、斜めに振り出した雨から逃れようと、軒下に蹲る。
湿っぽい歌だぜ。けっと、卯吉は口の中で舌打ちをした。
「誰だい」
少し険しいお幸の声が、頭の上から降ってくる。
卯吉はのそりと、立ち上がった。
「軒、借りてるぜ」
卯吉が言えば、お幸が真面目な顔で、
「五文」
と答える。
「なんだと、この業付」
「すまないね、ごうつくが身にしみてんだよ」
けろりと言い返す、そのお幸の姿に、思わず卯吉は口篭った。
なんとはなし、言ってはいけない言葉を口にした気分だった。
「突っ立ておくのは、棒杭だけでいんだよ。うすらでかいあんただと、部屋ん中、狭
ぽんぽんとお幸が言う。
卯吉はちょっとの間むくれたが、また揚げ足を取られてはかなわない。土間に入ると
懐の巾着から、一文金を取り出すと、
「お代」
と差し出す。お幸はその手を、ぺし、と叩いた。
「嫌味な奴だね」
「どうすりゃいんだよ」
卯吉が言うが、お幸はただ楽しそうに笑ってみせただけだった。
「よぉ、最近、加減はどうだい」
卯吉が問いに、お幸は何も答えない。
茶を入れてくれるつもりなのか、急須を引き寄せていた。その横顔は、透き通るくら
「何とか生きてるよ」
「ったく、可愛げのない女だな」
「売りもんでね」
茶碗を差し出せれ、受け取ると、卯吉は茶を啜った。
雨が、濃くなっていく。お幸は再び、三味線を手に取ると、ちん、と弦をならした。
昔から、三味線が好きな娘だった。
子供の頃、三味線を抱えて習いに行くお幸を、卯吉はよくからかった。
「三味は、好きかい」
「あぁ、一等、好きだねぇ。頭んなか、空っぽになるよ」
卯吉の言葉に、お幸はそう答えた。そういえば、こうやって話すのは、久しぶりだっ
お幸が、大店の若旦那に見初められて、結婚すると聞いた時、卯吉はまだ修行を始め
今まで、幼馴染の綺麗な娘と思っていたはずなのに、足元が、すうと心細くなったの
お幸の嫁入り姿は、それは美しかった。
卯吉は、その姿を遠くから見た。
もう会えないのだろうなぁと、淋しく見送った。
それが、あんなに晴れやかで綺麗だった彼女が、婚家から帰されたと聞き、親が宛が
「仕事帰りかい?」
「あぁ、太田屋さんのとこ」
卯吉が答えれば、お幸は三味の手を、ついと止めた。
「縁談は、まとまったのかい」
「さすがに地獄耳だなぁ」
「ふふん、蛇骨ばばぁみたいだろ」
お幸の言葉に、卯吉はただ頭を振った。
話せば話すほど、お幸ははぐらかす。
何があったかは知らないが、道端の地蔵に手を合わす姿を、時に見かければ、朴念仁
辺りは暗くなり、ひんやりと冷えてきた。
薄く濡れていた、卯吉がぶるりと身を震わせる。
「寒いね。一本つけようか」
お幸が言った。
「酒、飲んでんのかよ」
「たまに、ね。寝付けない時に飲むだけだよ」
体、いたわんなよ、そう言いかけ、卯吉は言葉を飲み込む。
お幸が嫌うだろうと思ったからだ。
「熱いのにしてくれよ。で、お代は幾らだい」
「お前さん、猫舌だろ。あぁ、おくどさんが割れそうだから、塗っておくれ」
「おい、俺ぁ、白壁塗るのが得意なんだぜ」
「そのうち、白壁塗った女房もらいな」
お幸は白く笑う。
そう言いながらも、燗を一本つけてくれた。丁度いい、熱さだった。
「あたしも、いただこうかね」
お幸が言えば、卯吉は猪口をくいとあけ、差し出した。
猪口を受け取る、お幸の、その小さな手。
「お前、嫁、行かねぇのかよ」
「からかってんのかい。あたしゃぁ、出戻りだよ」
明るくお幸は答える。卯吉はちょっと、苦い顔をした。
手酌で、猪口に酒を注いだ。口元がもぞもぞして、ちょいと指で掻く。もっと、ずっ
「お前さんが、一等好きなのは三味かい」
「そうさね」
「二番目は、ないんのかよ」
卯吉はそこで、お幸の目を真っ直ぐに見つめた。
お幸は少し笑うと、三味を爪弾いた。
「さて、今のところは、わからないねぇ」
お幸はそう呟くと、雨の外を見つめる。
卯吉はもう一杯、猪口の酒を呷った。
「俺の横じゃ、三味は弾けねぇかい」
雨はまだ、止まない。
さぁさぁと、しゃらしゃらと、三味の音のように二人を雨音が包んでいく。
お幸は何も答えず、やがてまた、三味線の糸を合わせ始めた。
ちん、とん、ちん、とん。
音が、少し、優しいように、卯吉には聞こえた。
「お前さん、酔ってるね」
お幸が小さく笑い、俯いたまま呟いた。
「馬鹿、これぐらいで酔うかよ」
卯吉はもう一杯、猪口を呷った。
――この酒を 止めちゃ嫌だよ酔わせておくれ まさか素面じゃ言いにくい
からかうように、お幸が謡う。
卯吉は、ただただ、優しく笑っていた。
了