お江戸小噺 ゆうづつ
三味線の糸が切れ、さっくり小指が切れてしまった。お幸は泣きそうな顔をして、血が滲む小指を口に含む。
あぁ、いやだ。くさくさする。もう、何日も、人と話していない、ご飯も食べていないような気がする。買い置いていた酒だけが、減っていく。このお江戸の空の下、自分よりも不幸な女は数多あろうに、今は己がただ可哀想。
暫く自分を慰める愚痴を何度も胸の内で繰り返し、連子窓から差し込む、弱々しい日の光をぼんやりと目で追いかけていたお幸は、三味線を抱えたまま小さな咳を繰り返した。襦袢で口元を覆い、きゅっと目をつむる。こんなに弱々しい気持ちでいるのは、きっと、風邪をひいたせいだ。風邪で寺子屋と三味線の教えを休んでしまったら、綺麗に他の人に、もっていかれてしまった。
実家はそこそこ裕福だけれども、出戻った身、お金の無心も兄嫁に気がひける。目の端に、台所に放り出した包丁が引っかかる。あれで、ぽんと喉でも付けば、息が抜けて楽だろうに。
そう考えながら、薄く笑った。そんな元気がないもので、今いるこの身。
「おーい、生きてるかい」
思わず、飛び上がるような大声を上げ、土間に入ってきたのは、五つ年上の幼馴染、左官職人の卯吉だった。お幸の処によってくれるのは、彼ぐらいのものだ。なんだか駆け出したいほどに気持ちが騒ぐのを、ほっと息を一つ吐いておさめる。素直でないのは童の時からの性分だ。
「お前さんの大声で、心の臓がとまりそうだったよ」
憎たらしいように言い返してみたが、卯吉はただ笑っている。いい男なのに、未だに独り身だった。
「ちょいと付き合いな」
「嫌だね」
「いいからよ」
卯吉はお幸の手を掴むと、外へ出た。
通りを行く、二人を近所の人が見つめている。出戻りで病持ち、こんな女と一緒にいては、卯吉の評判に傷が付く。お幸は俯いていた。
「皆、見てるよ」
泣きそうな声でお幸が呟く。自分のつま先ばかり見て、ちっとも前を向くことが出来ない。
「ほっとけ、めんどくせぇ」
誰に聞かせるためなのか、殊更にでかい声で、卯吉が答えた。やがて彼が手を引いて連れて行ってくれたのは、今日、仕事をしたとかいう、大店だった。びいどろだとか、そんな舶来の洒落たものを扱うお店だ。その軒に、梯子が掛かっていた。お幸が首を傾げる暇もないままに、卯吉は軽々とその体を担ぎ上げ、梯子を上り始める。
「この馬鹿、なにすんだよ!」
拳固で背中を叩くが、卯吉はけらけら笑っている。
軽いなぁ、飯食えよ。その呟きが、痛かった。
「ほれ」
屋根の上にお幸を座らせると、卯吉は西の空を指差した。夕日の奥に、富士のお山が見える。その裾に、細い三日月が見えた。茜と群青の交じった空の藻裾、そこに浮かぶ、三日月。お足元には、白玉が一つ。
「寺子屋で習ったろう、ゆうづつだぜ」
卯吉が童のような顔をして、その星を指差した。お幸は答える言葉も選べずに、その顔を一時見つめた後、自分の上に広がる空を見上げた。ああ、と知らずに小さく彼女は呟いている。
空なんて、随分と久しぶりに見る。
お幸は何も言わないまま、その真珠のような光を見た。三日月の裾に、儚く光る一粒。黙って見つめていたいのに、綺麗だろと、卯吉が得意げに言うのが、少し、癪に触った。
「気が晴れたかい」
卯吉の問いには、わざと答えないでおく。代わりに、
「心太が食べたい」
と、言ってみた。すると、本当に食べたくなった。黒蜜と黄粉をかけて。
「此処でかよ」
「そう、お星様観ながら」
「ぬかせぇい」
そう言いながらも、卯吉は梯子を下りていく。どうやら、本気で食べさせてくれるらしい。お幸が小さく微笑んだ。その色の薄い、小さな唇から、ほうと息が抜けていき、初夏の風と一緒に、夕空に舞い上がった。
「ゆうづつ」
童女のように呟いたお幸の顔は、穏やかで、柔らかだった。
了